『君の話』愛されているのは、わたしじゃない——音羽が考えた、夏凪灯花の覚悟

物語の考察

三秋縋さんの『君の話』の話をします。

読み終わったあと、しばらく天井を見ていました。

恋愛小説として読むこともできます。

でも、いちばん強く残ったのは、もっと居心地の悪い問いでした。

今回は、夏凪灯花の側から考えてみます。

あくまで音羽の勝手な読み方です。正解を書くつもりはありません。

いちおう、本の枠だけ。

『君の話』は2018年に出た三秋縋さんの長編です。早川書房から。

三秋縋さんというと、『三日間の幸福』や『スターティング・オーヴァー』が知られています。

失われるものや、取り返しのつかないものを書き続けている作家です。

この『君の話』も、その系譜にある一冊だと思います。

ライトノベルの棚に置かれることもありますが、中身はかなり重たいです。

会話は軽いのに、扱っているものが重い。

この落差が、この作家の持ち味だと思います。

読みやすいので、油断して読み進めて、後半で足を取られます。

※内容に触れています。未読の方はご注意ください。

義憶という設定

この小説の世界には、義憶というものがあります。

人工的に作られた、偽物の記憶です。

お金を払えば、自分が体験していない思い出を持てる。

楽しかった夏休み、幸せな家族、そして初恋。

実際には起きていないのに、本人の中では本物として残ります。

気持ち悪い設定です。

でも、読んでいるうちに、そんなに遠い話でもないなと思えてきます。

思い出は、だいたい美化されます。

実際より楽しかったことにして、覚えている。

嫌なところは、勝手に削られていく。

その意味では、人の記憶はもともと少し義憶です。

違いは、お金で買えるかどうかだけかもしれません。

この設定の怖さは、そこにあると思います。

もうひとつ怖いのは、義憶が「売れる」ということです。

売れるということは、誰かの体験が商品になっているということです。

元になった人がいる。

その人の人生の一部が、知らない誰かの思い出として配られていく。

考えるほど、気味が悪い仕組みです。


▼ 灯花の想いを歌にしたオリジナル曲「あなたの記憶にしかいない」


千尋が持っていた初恋

主人公の千尋には、十七歳の夏の初恋の記憶があります。

相手の名前は、夏凪灯花。

とても鮮明で、大切な記憶です。

でも、それは義憶でした。

つまり、そんな夏はなかった。

灯花という子にも、会ったことがない。

そこまでは、よくある設定かもしれません。

問題は、そのあとです。

ちなみに千尋は、その義憶を消す治療を受けています。

偽物だとわかったので、消すのが正しい。

でも、消したあとに残るのは空白です。

大事だったものが、なかったことになる。

偽物でも、本人にとっては人生の一部だったわけです。

人の中身は、事実だけでできているわけじゃない。

嘘でも、そこで本当に嬉しかったなら、その感情は残ります。

消すべきか、残すべきか。

この問いが、最初から最後まで通底しています。

この時点で、もう簡単な話ではなくなっています。

作られた初恋。そこにいたはずの少女は、実在しなかった
作られた初恋。そこにいたはずの少女は、実在しなかった

本物の灯花が現れる

いないはずの夏凪灯花が、千尋の前に現れます。

ここから、この物語がややこしくなります。

そして、灯花の立場がとんでもなく難しくなる。

なぜ現れたのか。どうして名前と顔が同じなのか。

そこは読んで確かめてほしいので、詳しくは書きません。

ただ、彼女が自分の意思で会いに来た、というところだけは押さえておきたいです。

偶然ではなく、選んで来ている。

会わなければ、灯花は普通に暮らせたはずです。

自分の記憶が誰かに使われていることを知らないふりもできた。

でも、あの人はそうしませんでした。

確かめに行った、というのがいちばん近い気がします。

自分がどう扱われたのかを、自分の目で見に行った。

しかも、相手は自分を知らない。

正確には、自分ではない誰かとして知っている。

その状態で会いに行くのは、相当な覚悟です。

わたしなら、たぶん行けません。

愛されているのは、自分ではない

千尋が好きなのは、記憶の中の灯花です。

作られた、理想の少女。

目の前にいる本物とは、たぶん別人です。

しゃべり方も、性格も、育ってきたものも違う。

それなのに、同じ名前と同じ顔をしている。

これ、かなり残酷な状況だと思います。

好かれているのに、自分は見られていない。

しかも、それを責められません。

千尋に悪気はないので。

本人は本気で好きだと思っている。

悪意がないぶん、言い出せない。

この形の苦しさは、ほかの作品でも何度か書いてきました。

比べられていることに気づいてしまう瞬間、というのがあります。

言葉にはされません。

ふとした反応や、間の取り方でわかる。

そして、わかったことを相手に言えません。

言えば、面倒な人になってしまうので。

勝てない相手

記憶の中の相手には、絶対に勝てません。

理想として作られているので。

機嫌が悪い日もないし、言い間違いもしない。

生身の人間は、必ず劣ります。

この構造は、『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』の記事でも書きました。

あちらは死んだ人に勝てない話でした。

こちらは、存在しない人に勝てない話です。

どちらがきついかというと、たぶんこちらです。

死んだ人には、少なくとも実在した過去があります。

義憶の相手には、それすらない。

架空の誰かに負けている、という状態です。

比べようがないぶん、話し合うこともできません。


▼ 『君の話』の世界を描いたオリジナル曲


それでも、灯花は会いに行った

わたしがこの人をすごいと思うのは、そこです。

黙っていれば、何も起きませんでした。

自分が誰かの記憶の材料になっていることを知って、それでも会いに行く。

普通なら、怖くて動けません。

相手が見ているのは自分じゃない、と確認しに行くようなものなので。

記憶の中の私と、いまここにいる私。同じ顔をした、別の人間
記憶の中の私と、いまここにいる私。同じ顔をした、別の人間

嘘を重ねることになる

しかも灯花は、正直でいられません。

本当のことを言えば、関係が終わる。

言わなければ、偽物のままそばにいられる。

どちらを選んでも、どこかが傷つきます。

この小説の中で、いちばん苦しいのはこの人だと思っています。

千尋のほうも、もちろん苦しんでいます。

自分の大事な思い出が、買ったものだったと知る。

その衝撃は相当なものです。

ただ、彼には少なくとも自分の感情があります。

灯花にあるのは、他人の感情の受け皿という位置だけです。

そこが決定的に違うと思いました。

記憶と、その人らしさ

この物語が問うているのは、結局ここです。

人は、何でできているのか。

記憶なのか、いまの行動なのか。

もし記憶がその人を作るなら、義憶を持った千尋の初恋も本物です。

でも、それを本物と呼んでしまうと、実際に生きてきた灯花の立場がなくなる。

答えは出ません。

出ないまま、二人は選ばなければならない。

偽物の記憶は、偽物か

ひとつ、考えたことがあります。

義憶は作り物です。でも、それで動いた感情は本物です。

千尋は、その記憶があったから優しくなれたかもしれない。

その記憶があったから、灯花に会いに行けたのかもしれない。

だとすると、偽物だから無価値とは言い切れません。

嘘から始まったものが、本当になることはあります。

お見合いで始まった夫婦が、何十年か経って本当に仲のいい夫婦になる、みたいな話と似ています。

入口が作られたものでも、そのあとは本人たちが積み上げるものなので。

この小説が最後まで考えさせてくるのは、そこだと思います。

タイトルの意味

『君の話』。

誰にとっての君なのか、という題です。

千尋にとっての君は、記憶の中の灯花。

灯花にとっての君は、目の前にいる千尋。

同じ言葉なのに、指しているものが違う。

その食い違いが、この物語そのものです。

しかも、どちらも嘘をついていません。

それぞれの中では、ちゃんと本物です。

ずれているのに、どちらも正しい。

こういう関係は、現実にもあると思います。

同じ出来事を、二人がまったく違う形で覚えている。

どちらも嘘をついていないのに、話が噛み合わない。

家族でも、恋人でも、わりとよくあることです。

記憶ではなく、これからを選ぶということ
記憶ではなく、これからを選ぶということ

現実にもある話

義憶はSFの設定です。

でも、似たことは普通に起きています。

人は、相手のことを自分の頭の中で作ります。

こういう人だ、と決めて、その像を好きになる。

実際のその人と、頭の中の像は、たいていずれています。

付き合ってから「思っていたのと違う」と言われるのは、これです。

つまり、わたしたちも少しずつ義憶を作っているようなものです。

そして、たいていの人はそのずれに気づかないまま暮らしています。

気づいてしまった灯花は、その意味でも不幸です。

見えなくていいものが、はっきり見えてしまった。

知らなければ幸せだったのに、という状況です。

この小説には、そういう人が何人も出てきます。

曲について

この物語をもとに、曲を作りました。

灯花の視点で書いています。

タイトルは「あなたの記憶にしかいない」。

書きたかったのは、嫉妬でも怒りでもありません。

自分ではないものを愛されている人の、静かなあきらめのほうです。

メロディも、大きくしていません。

この人は、たぶん声を荒らげない。

言いたいことを飲み込んだまま、そばにいるタイプだと思ったので。

サビだけ、一度だけ本音が出る形にしました。

よかったら、物語を思い出しながら聴いてみてください。

おわりに

この小説は、読む人によって受け取り方がかなり変わると思います。

きれいな恋愛小説として読む人もいるはずです。

わたしは、灯花という人の覚悟の話として読みました。

負けるとわかっている場所に、自分から行く。

あれは、そうとう強い人だと思います。

恋愛小説として読むと、ちょっと切ない話で終わります。

でも、自分を誰かに重ねられた経験がある人には、たぶん別の読み方になります。

兄や姉と比べられた人、前の恋人と比べられた人。

その感覚を知っていると、この物語はかなり刺さると思います。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

音羽(Otowa)について

音羽は、小説や映画、童話を題材に、登場人物の心情を歌にしているチャンネルです。

あらすじをなぞるのではなく、その人が何を感じていたかを想像しながら、歌と文章で書いています。


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