『白夜行』雪穂は本当に冷たい女だったのか——音羽が考える、太陽のない二人の絆

物語の考察

『白夜行』を初めて読み終えたとき、しばらく本を閉じられませんでした。読後感が重いとか、悲しいとか、そういう言葉では足りない。ただ、胸の奥にずっしりと何かが沈んだまま、それが何なのか、自分でもうまく説明できなかったのを覚えています。

この物語は、雪穂と亮司という二人の関係を、最後まで直接には描きません。二人が言葉を交わす場面すら、ほとんど出てこない。それなのに、読み終えたときに残るのは、二人の絆の深さだけ。こんな小説、ほかにあるでしょうか。

1999年に発表されたこの作品は、東野圭吾さんの代表作のひとつとして、今も読み継がれています。ドラマ化・映画化もされましたが、原作を読んだ人ほど「あの余白は文章でしか味わえない」と言うのを、よく見かけます。わたしも、その一人です。

この記事では、その物語をヒロイン・雪穂の側から見つめ直してみたいと思います。ただ、これは原作の解説でも、公式の解釈でもありません。あくまで、音羽が想像した雪穂です。彼女は何を抱えて、あの白い光の中を歩いていたのか。わたしなりに考えたことを、書いてみます。

物語の入り口をざっとおさらいしておくと——1970年代の大阪、一件の質屋殺しから、すべては始まります。事件は迷宮入りし、時は流れ、成長した二人の周囲では、なぜか不可解な出来事が続いていく。読者は、その断片を追いかけながら、少しずつ真相に近づいていく構成になっています。

ただ、この記事ではトリックや事件の謎解きにはあまり触れません。わたしが書きたいのは、あくまで雪穂という一人の女性の内側だからです。

※物語の結末に触れています。これから読む予定の方は、ご注意ください。


歩く女性の足元

太陽を失った、二人の子ども

物語の始まりで、雪穂と亮司はまだ小さな子どもです。そして、ある事件をきっかけに、二人はそれぞれ、決して人に言えない秘密を抱えることになります。

よく語られる有名なセリフに、雪穂の「私の上には太陽なんてなかった。でも暗くはなかった。太陽に代わるものがあったから」という言葉があります。この一文を読んだとき、わたしは、ぞっとしました。だって、これは「不幸だった」という話ではないのです。太陽の代わりを見つけてしまった、という話なのですから。

本来なら、子どもには親がいて、学校があって、まっとうな光が降りそそぐはずでした。それを奪われた二人が選んだのは、光を取り戻すことではなく、互いを光にして闇の中を歩くことでした。ここに、この物語のすべてが凝縮されていると思います。

ただ、この選択を、わたしは責める気になれません。誰も助けてくれなかった子どもが、生き延びるために見つけた唯一の方法が、それだったのですから。

わたしが何度も考えてしまうのは、二人が「子どもだった」という一点です。もし大人になってから同じ状況に置かれたなら、逃げる場所も、相談する相手も、選択肢がいくつかあったかもしれません。でも、当時の二人にはそれがなかった。世界の全部が、目の前の家庭と学校だけだった年齢です。

そういう年齢で背負ってしまったものは、その後の人生の土台になってしまう。二人がやがて選んでいく道は、たしかに恐ろしいものですが、その始まりの場所を知ってしまうと、単純に「悪人だ」と切り捨てられなくなるのです。

子どもが親の事情で人生を決められてしまう話は、この作家が何度も書いてきたものです。

『手紙』の直貴も、『白鳥とコウモリ』の子どもたちもそうでした。

自分では選べないところで、すでに何かが決まっている。

雪穂が子どもの頃に何をされたのか——小説が直接書かなかったこと

この記事に届く検索で、いちばん多いのが「雪穂は何をされたのか」だった。今まで私はここをぼかして書いてきた。たぶん不親切だったと思う。だから一度だけ、はっきり書きます。

雪穂は十一歳のとき、母親に連れられて桐原洋介のところへ行かされていた。母の西本文代が、お金のためにそうしていた。雪穂はそこで性的な被害を受けている。そしてそれを外から見てしまったのが、洋介の息子の亮司だった。亮司は父を刺した。この物語は全部、ここから始まっている。

初めて読んだとき、私はこの事実を飲み込むのに時間がかかった。加害者が父親で、目撃者がその息子。しかも連れていったのは雪穂の母親。守るはずの人が全員、逆の側にいる。

ただ、もうひとつ驚いたことがある。東野圭吾さんは、その場面をひとつも書いていない。

白夜行は八百ページ近くある。なのに、雪穂が何をされたかを描いた行は一行もない。全部、あとから誰かが話すことでしか出てこない。刑事の推測、雪穂の遠回しな台詞、亮司の沈黙。読者は最後まで、あの部屋の中を見せてもらえない。

最初は物足りなかった。でも今は、あれは意図だったと思っている。書いてしまったら、読者はそこで一回「わかった」気になる。わかった気になった瞬間、雪穂は「かわいそうな子」という箱に入る。東野圭吾さんはそれを避けたんじゃないか。

箱に入れさせないから、雪穂はずっと不気味なままでいられる。読者は最後まで彼女を採点できない。この小説の居心地の悪さは、そこから来ていると思う。

それから、もうひとつ。雪穂は後半で、義理の娘の美佳に自分の過去に近いことを話す場面がある。あのとき彼女は、悪魔は一人ではなかった、という言い方をした。

この一言は重い。一度きりの出来事ではなかった、ということになる。子どもの頃の雪穂が何年、何人を相手にしていたのか。小説は数えさせてくれない。数えられないままにしてある。

だから私は、雪穂が大人になってやったことを許す気にはならないけど、彼女の出発点を軽く扱う気にもなれない。あの十一歳の部屋に、誰も助けに来なかった。それだけは確かなことだと思う。

雪穂と亮司の関係は、なんだったのか

二人の関係を一言で表すなら、「亮司が影を引き受け、雪穂が光を歩いた」ということになります。

雪穂は、表向きは何ひとつ欠けたところのない女性として生きていきます。上品で、美しく、教養があり、周囲から羨まれる存在。けれど、その輝きの足元には、いつも亮司が引き受けた汚れがありました。彼は表に出ず、名前も呼ばれず、ただ夜の側でひたすら手を汚し続けます。

ここで、わたしが考えてしまうのは——雪穂は、それをどう感じていたのだろう、ということです。

何も知らなかったはずはない、と思うのです。むしろ、誰よりも分かっていたはずです。自分が笑うたび、褒められるたび、その裏で誰かが代償を払っていることを。感謝と罪悪感と、それでもやめられない依存が、彼女の中でぐるぐると渦を巻いていたのではないでしょうか。

自分の人生が、愛する人の犠牲でできている。それを知りながら生きるというのは、どれほどの重さなのか。想像するだけで、息が詰まります。

雪穂は、物語の中で次々と成功していきます。良い縁談、事業の成功、社会的な信用。傍から見れば、順風満帆な人生です。

でも、その一つひとつを手に入れるたびに、彼女の中の「借り」は増えていったのではないでしょうか。返せない借りを抱えたまま笑い続けるというのは、どれほど孤独なことか。誰にも打ち明けられず、感謝すら伝えられない。彼女の完璧すぎる立ち居振る舞いは、その孤独を隠すための鎧だったのかもしれません。

そう考えると、雪穂の「冷たさ」は、生まれつきの性格ではなく、後から身につけた生存の技術のように思えてきます。

作中の雪穂は、装いも、話し方も、驚くほど完璧です。上流の雰囲気を身にまとい、周囲の人が思わず信じてしまうような気品がある。でも、それは彼女が生まれ持ったものではありませんでした。すべて、後から自分で作り上げたものです。

わたしはそこに、彼女の必死さを見ます。「こうあれば、誰にも侵されない」という鎧を、一枚ずつ丁寧に重ねていったのでしょう。美しさも教養も、彼女にとっては武器であり、防具でした。

▼ 雪穂と亮司の物語を歌にしたオリジナル曲は、こちらからご覧いただけます。

「手が小さいんだな」——亮司のあのひと言は誰の手のことか

白夜行を読んだ人が、たいてい一度は引っかかる台詞がある。亮司の「手が小さいんだな」。

場面は、亮司が栗原典子と暮らしていた時期。典子に触れられながら、亮司は誰かの手と比べている。比べている相手の名前は書かれない。ここも、やっぱり書かれない。

読み方はふたつに分かれている。

ひとつは、比べているのは雪穂の手だという読み。亮司と雪穂は、大人になってから直接会う場面がほとんどない。それなのに体の記憶だけが残っている。そう取ると、二人の関係は私たちが思っているよりずっと近い場所にあったことになる。

もうひとつは、父・洋介の手だという読み。子どものときに見た大人の手は、異常に大きく見える。その大きさが亮司の中に焼きついていて、誰の手を見ても小さいと思ってしまう。この読み方だと、亮司も被害を受けた側に立つことになる。

私はどちらかといえば、後ろの読みに寄る。理由は単純で、亮司は誰とも続かない人だから。典子とも続かない。雪穂とも並んで歩けない。人に触れるたびに彼の中で何かが照らし合わされて、そのたびに離れていく。そういう人に見える。

どちらが正しいかは、たぶん決まらない。東野圭吾さんは答えを置いていないから。手が小さい、という短い一行だけ置いて、あとは読者に渡している。

こういう台詞が一行だけ落ちているから、白夜行は読み終わっても終わらない。私はいまだに、あの一行の前で止まる。

亮司に子どもはいたのか——小説にはなく、ドラマだけの設定です

「白夜行 亮司の子供」で調べてこの記事に来る人が、わりといます。だから先に書いておきます。

小説に、亮司の子どもは出てきません。

あれは二〇〇六年のドラマ版だけの設定です。最終回で、典子が赤ん坊を抱いて現れる。父親は亮司だと言う。小説を読んでからドラマを見た人も、ドラマから入って小説を読んだ人も、ここで「あれ?」となります。

では、どうしてドラマは子どもを足したのか。

たぶん、亮司に何かを残したかったんだと思います。

原作の亮司は、本当に何も残しません。名前も、住所も、仕事も、ほとんど借り物で生きて、最後は自分で自分を終わらせる。あとに残るものがひとつもない。

あれは、見ていてきつい終わり方です。毎週テレビで追いかけてきた人に、それだけを渡すのは重すぎる。だから「続き」を置いた。私はそう受け取っています。

どちらが正しいという話ではありません。ただ、原作の亮司が何も残さなかったことには意味があると思っています。彼はずっと、雪穂の影として生きた人だから。影は、あとに残らない。

「知らないふり」は、優しさか、残酷さか

この物語でいちばん切ないのは、二人が「知らないふり」を貫き続けたことだと思います。

亮司は、雪穂に闇を見せませんでした。自分の罪を打ち明けず、責任を負わせず、ただ黙って引き受け続けた。それは彼なりの、最大限の愛し方だったのでしょう。

そして雪穂も、それを知らないふりで受け取り続けました。

この関係を「美しい」と読む人もいれば、「共犯だ」と読む人もいると思います。わたしは……正直、どちらとも言い切れません。ただ、ひとつだけ思うのは、もし二人が一度でも本音でぶつかって、同じ闇を一緒に見つめられていたら、違う未来があったのかもしれない、ということです。

でも、それができなかった。真実を口にした瞬間、二人の関係が崩れてしまうと、お互いに分かっていたから。だから沈黙を選ぶしかなかった。——世界でいちばん近くにいながら、いちばん遠い二人。その距離が、この物語をこんなにも切なくしているのだと思います。

もうひとつ、この「知らないふり」について考えることがあります。それは、亮司の側の気持ちです。

彼は、雪穂に感謝されることも、労われることも望んでいなかったように見えます。むしろ、自分の存在が彼女の人生の表舞台に出ることを、いちばん避けていた。愛する人の日なたを守るために、自分は日陰にいる——そう決めた人の静かな覚悟が、そこにはあります。

こういう愛し方を、美しいと呼んでいいのか、わたしにはまだ答えが出ません。ただ、彼が一度も見返りを求めなかったことだけは、確かだと思います。

見返りを求めない愛し方という点では、『容疑者Xの献身』の石神とよく似ています。

ただ、石神は一度きりの決断でした。

亮司は、それを何年も続けている。

わたしには、こちらのほうが重く感じられます。

二人が直接会う場面がほとんど描かれないのも、この「知らないふり」と地続きです。会わないことでしか、続けられない関係だった。連絡を取り合う描写すらほとんどないのに、読者には、二人が確かにつながっていることが伝わってくる。この見せ方が、本当に恐ろしいほど上手いのです。

Beine mit roten Stoffschuhen vor Strand und Meer

白夜行のラスト、雪穂はなぜ振り返らなかったのか

亮司は、最後まで雪穂を守って死にます。

そのあとが、あの場面です。雪穂は振り返らない。一度も。そのまま歩いて、行ってしまう。

冷たい女だ、と読む人は多いと思います。私も一度目はそう思いました。

でも、いまは違う読み方をしています。あそこで振り返ったら、全部終わる。亮司が最後まで隠したものが、無駄になる。

泣くことも、名前を呼ぶことも、彼女には許されていない。できるのは歩き続けることだけ。あの白い背中は、冷たさじゃなくて、最後に残された役目だったんじゃないか。

もちろん想像です。東野圭吾さんは、最後まで雪穂の中身を書かなかった。

書かないから、読んだ人がそれぞれ勝手に埋める。あの余白の作り方は、ちょっとずるいくらいうまいです。

実際、解釈は割れています。最初から情なんてなかった、という読み方。振り返ったら泣くから耐えた、という読み方。

どっちが正しいかは、たぶん永遠に決まりません。

ただ、これだけ意見が割れるのに、誰も「どうでもいい」とは言わない。あの背中には、それだけの何かがある。

私は、泣くのを我慢したほうだと思っています。根拠はありません。そう思わないと、あの二人があまりに報われないから。

だからこれは考察じゃなくて、私の願いです。

雪穂のその後——ラストのあと、彼女はどうなったのか

これもよく検索されています。あのあと雪穂はどうなったのか。

小説は書いていません。亮司が落ちて、雪穂がエスカレーターを上がっていく。そこで終わりです。

ただ、終わる直前までの状況なら分かります。

彼女は篠塚康晴と結婚していて、店も広げていて、外から見れば何ひとつ失っていない。亮司が死んだあとも、警察は雪穂に手を出せません。証拠が全部、亮司と一緒に消えたからです。

つまり雪穂は、逃げ切っている。

でも「その後」を考えるとき、私が引っかかるのはそこじゃないんです。

雪穂の人生は、亮司が裏で支えていたから回っていました。汚れる仕事を、全部あの人が引き受けていた。その人がいなくなった。

明日からは自分でやるしかない。あるいは、もうやらなくていいのかもしれない。どちらにしても、あの日を境に彼女の昼は変わったはずです。

太陽の代わりだった人が消えて、白夜も終わる。あとに残るのは、ただの夜か、ただの昼か。

東野圭吾さんはそこを書きませんでした。書かないことで、雪穂のその後を読者ひとりひとりに背負わせた。ずるいと思うし、うまいと思います。

私は、雪穂はあのまま何事もなく生きたと思っています。壊れもしないし、泣きもしない。そのほうが、ずっと怖い。

白夜行の最後の一文——あの一行で小説を閉じた意味

最後の一行を確かめたくて検索する人も多いようです。

ラストは笹垣の目線です。雪穂がエスカレーターをのぼっていく。その後ろ姿が「白い影」に見える、と書かれている。そして彼女は一度も振り返らなかった——そこで小説は終わります。

たった一行です。種明かしも、気持ちの説明もない。

でも、この一行があるから白夜行は終われた。

この小説は、感情を説明する言葉をほとんど使わずに閉じます。悲しいとも、つらいとも書かない。見えたものだけを書いて、終わる。

そのぶん、読む側が勝手に補ってしまいます。何も書いていないのに、雪穂の顔が浮かぶ。あれは書き手の腕だと思います。

それと、この一文は読者にも向いている気がします。

読み終えた私たちも、結局あの二人が何だったのか分からないまま置いていかれる。雪穂が振り返らないから、こちらも確かめようがない。

八百ページ付き合って、最後の一行で突き放される。あの冷たさが、この小説を忘れられないものにしています。

『白夜行』というタイトルの意味

白夜とは、太陽が沈みきらず、夜でも空が明るいままの現象のことです。

でも、この物語で描かれるのは、その逆です。昼間でも、太陽のない世界を歩く二人。明るいようで、本物の光ではない。どこか青白くて、冷たくて、現実感のない明るさ。

タイトルを噛みしめるほど、うまいなあと思います。二人が生きた時間そのものが、白夜だったのですから。

そして、白夜にはもうひとつの意味があるように思います。それは「終わらない」ということです。夜が明けきらないまま、ずっと続いていく時間。二人にとって、あの子ども時代は、決して終わってくれなかった。何年経っても、どれだけ成功しても、あの日の続きを生きているだけだったのかもしれません。

なぜ、この物語は忘れられないのか

『白夜行』が名作と呼ばれる理由は、いくつもあると思います。伏線の張り方、構成の緻密さ、時代を映す社会描写。どれも見事です。

でも、わたしがいちばんすごいと思うのは、雪穂と亮司の会話がほとんど描かれないことです。

二人の関係は、常に物語の「影」として存在します。読者は断片的な出来事をつなぎ合わせながら、少しずつ二人の絆を感じ取っていく。そして最後にすべてがつながったとき、その想いの重さに、言葉を失うのです。

語られないからこそ、伝わってくるもの。見えないからこそ、強く感じる絆。この描き方があるからこそ、読み終えたあと、しばらく動けなくなるのだと思います。

東野圭吾さんの作品には、『容疑者Xの献身』や『秘密』のように、「誰かのために自分を差し出す愛」が繰り返し描かれます。『白夜行』は、その中でもいちばん暗く、いちばん静かな一作だと思います。

差し出す側の話という意味では、『殺人の門』も並べて読みたい一冊です。

あちらは、与えているつもりもないまま取られ続けた男の話でした。

亮司は自分から差し出し、あの男は気づかないうちに奪われていく。

同じ作家が、こんなに違う形で同じ問いを書いているのが面白いところです。

救いがあるかと聞かれれば、正直、ないと答えるしかありません。それでも読後に残るのが、絶望だけではないのは、二人のあいだに確かに存在した「相手を想う気持ち」が、最後まで嘘ではなかったからでしょう。

罪の物語なのに、愛の物語として記憶に残る。この矛盾こそが、『白夜行』が特別である理由なのだと思います。

罪のあとを書く、という意味では、『虚ろな十字架』も同じ地層にあります。

あちらは、裁かれたあとの人たちの話でした。

雪穂は本当に冷たい女だったのか——サイコパスと呼ばれる理由

「白夜行 雪穂 サイコパス」という検索も多いです。たしかに、そう呼びたくなる人だと思います。

人を平気で壊すし、罪悪感らしいものを一度も見せない。相手によって顔を作り替える。並べていくと、当てはまってしまう。

ただ私は、その言葉で片づけたくありません。

サイコパスという言葉は便利すぎます。使った瞬間に「そういう人だった」で話が終わる。生まれつきそうだった、ということにできてしまう。

でも雪穂は、生まれつきああだったわけじゃない。十一歳までの彼女がどんな子だったか、小説は一行も書いていないけれど、少なくともあの家に生まれた時点では、ただの子どもだったはずです。

何かに変えられた人を、生まれつきそうだったことにする。それはたぶん、いちばん楽な逃げ方だと思います。

最後に、正直な気持ちを書いておきます。

雪穂と亮司がしたことは、決して許されることではありません。傷ついた人がいて、失われた命もあります。それを「愛だから仕方ない」で片付けるつもりは、まったくありません。

それでも、この二人を心の底から憎むことができないのです。それは、彼らが最初に奪われたものの大きさを、物語がきちんと描いているからだと思います。守られるべき子どもが守られなかった。その一点が、すべての始まりでした。

もし、あの事件のあとに、誰か一人でも二人に手を差し伸べていたら。もし、普通の子どもとして出会えていたら。——その「あり得たかもしれない未来」を思うたび、この物語の切なさは、深くなっていきます。

読み終えたあと、わたしがいちばん長く考えたのは、「二人は幸せだったのだろうか」ということでした。

世間的な意味では、絶対に幸せではありません。でも、太陽のない世界で、たった一人だけ、自分のすべてを賭けて守ってくれる相手がいた。その一点だけを見れば、多くの人が一生手にできないものを、二人は持っていたとも言えます。

もちろん、それを「よかったですね」とは、とても言えません。ただ、この物語が読む人の胸に長く残るのは、その割り切れなさのせいだと思うのです。答えの出ない問いを抱えたまま、本を閉じることになる。それが『白夜行』という作品なのでしょう。

太陽のない世界を、お互いだけを光にして歩いた二人。その孤独と、その奥にあった究極の愛を、音羽のオリジナル曲とあわせて感じていただけたら嬉しいです。

もしまだ読んだことがない方がいたら、ぜひ手に取ってみてください。分厚い本ですが、読み始めると止まらなくなります。そして読み終えたとき、きっとしばらく、何も手につかなくなるはずです。

東野圭吾作品の考察記事

音羽のブログでは、東野圭吾さんの作品をほかにも書いています。

よかったら、あわせて読んでみてください。

▼ 『白夜行』の世界を描いたオリジナル曲(再掲)


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