『殺人の門』田島はなぜ、あの男を殺せなかったのか、音羽が考えた、くぐれなかった門の話

物語の考察

東野圭吾さんの『殺人の門』の話をします。

読んでいるあいだ、ずっとイライラしていました。

主人公に対してです。

なんでそこで、また信じるんだと。

でも、読み終わったあとに残ったのは、その苛立ちじゃありませんでした。

自分にも心当たりがあるな、という気持ちのほうでした。

今回は、語り手の田島和幸(たじま かずゆき)について書きます。

あくまで音羽の勝手な読み方です。正解を書くつもりはありません。

※犯行の背景と結末に触れます。未読の方はご注意ください。

いちおう、本の枠だけ。

『殺人の門』は2003年に出た東野圭吾さんの長編です。

そして2027年2月19日に、映画が公開される予定になっています。監督は金井紘さん。倉持役が山﨑賢人さん、田島役が松下洸平さんです。舞台は令和に移されると発表されています。

東野圭吾さんの作品はたくさん映像化されていますが、これはかなり異色な部類だと思います。

派手な事件も、名探偵も出てきません。

ひとりの男が、ずっと嫌な目に遭い続ける話です。

東野圭吾さんの人気作とは、少し毛色が違います。

この考察ブログでも白夜行や容疑者Xの献身を書いていますが、こちらは謎解きより、二人の関係を追う読書になります。

その代わり、人間関係の嫌な部分をひたすら見せてくる。

好みは分かれると思います。

ただ、刺さる人には深く刺さる一冊です。

どういう話か

田島和幸という男の、半生の話です。

子どものころから、大人になるまで。

その人生に、ずっと倉持修(くらもち おさむ)という男が関わってきます。

幼なじみです。

この倉持が、とにかくひどい。

田島は何度も食い物にされます。

金を取られ、仕事を壊され、家族を失っていく。

そして田島は、思うようになります。

この男を殺したい、と。

しかも、一度で終わりません。

人生の節目ごとに、倉持が現れます。

学生のころ、就職してから、結婚してから。

そのたびに、何かを持っていかれる。

借金の保証人にされたり、うまい話に乗せられたり。

手口はいろいろですが、結果はいつも同じです。

読んでいて、次はどう来るんだろうと身構えるようになります。

しかも、田島のほうにも隙があります。

うまい話に、少しだけ期待してしまう。

全部が倉持のせいとは言い切れない場面もあります。

そこを書いているのが、東野圭吾さんらしいところです。

被害者を完全な善人にしない。

人生の節目ごとに現れては、何かを持っていく
人生の節目ごとに現れては、何かを持っていく

でも、実行できない

ここが、この小説の全部です。

殺意は本物です。

何十年も持ち続けている。

機会だって、たぶん何度もありました。

それでも、長いあいだ実行できません。

タイトルの門は、そのことを言っています。

殺人に踏み切る人は、どこかでその門をくぐる。

田島には、その門が見えません。

目の前にあるはずなのに、どこにあるのかわからない。

殺人事件を扱った小説はたくさんあります。

でも、殺したいのに実行できない人の話って、あまりありません。

殺した人は、そこで人生が区切られます。

捕まるか、逃げるか。どちらにしても、話が動く。

実行できない人は、そのまま生き続けるしかない。

憎しみを抱えたまま、明日も会社に行く。

そっちのほうが、実は長くてきつい気がします。

しかも、誰もそれに気づいてくれません。

殺していれば事件になって、周りが騒ぐ。

殺さなければ、何も起きていないことになります。

本人の中だけで、ずっと続いている。

なぜ、くぐれないのか

臆病だから、と読むこともできます。

でも、わたしはそれだけじゃない気がしています。

殺したいほど憎いのに、殺すほど割り切れていない。

倉持のことを、まだどこかで人間として見ていたのかもしれません。これは、いくつかある読み方のひとつです。

ここが、あの人のいちばん厄介なところでした。

強く憎んでいても、実行には移せない。

その隔たりの理由は、田島自身にも分かっていなかったのだと思います。

幼なじみ、というのも大きいと思います。

子どものころを知っている相手は、簡単に切れません。

嫌な思い出だけじゃないので。

楽しかった時間も、どこかに残っている。

その一かけらが、判断を鈍らせます。

地元の友達と縁を切るのが難しいのも、同じ理屈だと思います。

知りすぎているし、知られすぎている。

殺人の門。目の前にあるはずなのに、田島にはその在り処が見えない
殺人の門。目の前にあるはずなのに、田島にはその在り処が見えない

なぜ、何度も騙されるのか

読者がいちばんイライラするところです。

一度目は、わかります。

二度目も、まあわかる。

でも、三度目、四度目となると、さすがに読んでいて声が出ます。

逃げろ、と。

それでも田島は、また倉持の話を聞いてしまう。

で、また持っていかれる。

ただ、これを他人事として笑えるかというと、微妙です。

外から見ているから、おかしいとわかるだけなので。

中にいる人には、見えません。

今度こそ大丈夫だろう、と思ってしまう。

外からは不自然に見える関係でも、当事者には違って見えることがあります。

本人が馬鹿なわけじゃない。

期待や、過去の恩義が重なって見える。田島にも、そういう面があったのかもしれません。

期待するのをやめるって、想像以上にエネルギーがいります。

人を疑いながら生きるほうが、しんどいので。

たぶん、寂しかった

わたしの読み方では、理由はそこです。

田島にも、人間関係はあります。それでも、孤独を埋められない時期がありました。

家族は崩れ、仕事も続きません。

そこへ倉持が、助けてくれる親友の顔で戻ってきます。

話しかけてくれる。

その相手を切ると、本当にひとりになってしまう。

人は、ひどい相手でも、いないよりはましだと思ってしまうことがあります。

この構造、けっこう身近にある気がします。

学校でも、職場でも見かけます。

あきらかに嫌な扱いをされているのに、そのグループから離れない人。

離れたあとの空白のほうが、こわいんだと思います。

ひとりになる勇気って、意外といります。

田島には、それがありませんでした。

弱さと言えば弱さですが、責める気にはなれません。

幼なじみという関係。楽しかった時間も、どこかに残っている
幼なじみという関係。楽しかった時間も、どこかに残っている

都合のいい人に、なってしまう

田島は、悪い人ではありません。

むしろ、人を疑わない。

頼まれたら断れない。

それが、あの男にとっては便利だったわけです。

こういう関係、現実にもあります。

東野圭吾さんは、こういう一方的な関係をよく書きます。

『容疑者Xの献身』の石神も、報われない側でした。

ただ、あちらは自分から差し出していた人です。

田島は、気づかないうちに取られていた。

同じ与える側でも、形がまったく違います。

いつも貸す側と、いつも借りる側。

相談する側と、聞く側。

固定されると、なかなか逆転しません。

しかも、使われている側が気づきにくい。

自分が我慢すれば丸く収まる、と思っているうちは、その関係が続きます。

『手紙』の直貴も、似た場所に立たされていました。

あちらは兄の罪を背負わされる話です。

自分は何もしていないのに、人生が削られていく。

この作家は、そういう人をずっと書き続けた人だったと思います。

しかも、周りからは仲がいいように見える。

だから誰も止めてくれません。

まわりから見て、止めやすい関係でもありません。

仲のいい幼なじみに見えるので。

ここも、わたしの読み方です。

祖母の死のこと

物語の最初のほうに、田島の祖母が亡くなる話が出てきます。

毒によるものではないか、という噂が立ちます。

そこから、田島の家は坂を転がっていきます。

父の仕事も、家族の関係も。

ここで大事なのは、真相より噂のほうです。

本当かどうかより、周りがどう見るか。

その一点で、人生は簡単に崩れます。

田島は、子どものころにそれを経験しています。

人は信用できない、と学んでもよかったはずなのに。

でも、そうはならなかった。

傷ついた人が、みんな用心深くなるわけじゃないんですよね。

逆に、誰かにやさしくされたい気持ちが強くなる人もいる。

田島は、たぶんそっちでした。

だから倉持につけ込まれた。

ここが、いちばん切ないところだと思います。

倉持という男

少しだけ、あちら側の話も。

初めは、倉持がその場の都合で田島を利用しているようにも見えます。

でも終盤になると、長い関係の見え方が変わります。

田島の家に起きた不幸も、偶然ではありませんでした。

倉持は、生まれながらに裕福だった田島に嫉妬していました。

役に立つ範囲では幸せでいさせて、それ以上は幸せにしない。そういう扱い方です。

そっちのほうが、こわい気がします。

憎むにも、相手に理由がほしいんです。

あいつはこういう事情があったから、と思えれば少し整理できる。

金もうけだけでは説明しきれない執着が、この男にはあります。

わたしには、そっちのほうが怖く感じられました。

だから田島は、何十年も答えを探し続けることになります。

説明しきれない悪意に出会ったとき、人がどうなるか。

この感じは、『白夜行』の亮司や雪穂とも、少し重なるところがあります。

あちらも、説明されないまま進んでいく話でした。

噂が立ったあとの家。子どもの田島にとって、世界はここから傾きはじめた
噂が立ったあとの家。子どもの田島にとって、世界はここから傾きはじめた

殺せなかった理由を、どう読むか

この小説は、そこに答えを出しません。

実行しなかったから立派、とは書かない。

でも、殺すべきだったとも言わない。

わたしは、あれは正しさの問題じゃない気がしています。

できなかった、というだけです。

そして、できなかった人が大半だと思います。

だから読者は、田島を笑えません。

殺意を持つことは、悪いことか

もうひとつ考えたのが、そこです。

殺したいと思うこと自体は、罪ではありません。

思っただけで裁かれる社会は、さすがに息苦しい。

でも、その感情を何十年も抱えるのは、本人がしんどい。

憎しみって、相手より自分を削ります。

殺意を抱えたまま何十年も生きる、という点では、『虚ろな十字架』とも重なります。

あちらは娘を殺された母親の話でした。

相手は違っても、持ち続けることの重さは同じです。

田島は、倉持に人生を壊されただけじゃなく、憎むことにも人生を使ってしまった。

二重に取られている感じがします。

もし途中で、もういいや、と手放せていたら。

たぶん、あの人はもう少し楽になれた。

でも、それができないから物語になるんですよね。

結末——田島は、最後に門をくぐったのか

ここから結末に触れます。

田島はついに、倉持を殺す決意をします。

ところが、その瞬間に別の人物が倉持を襲います。倉持は意識が戻らない状態になる。

田島は、自分の手で殺す機会すら奪われました。

これだけでも十分に残酷です。何十年も殺意を抱え続けた人間から、最後の瞬間を取り上げてしまう。

そして、そのあとに分かることがあります。

自分の人生のあちこちが、仕組まれていたということです。偶然だと思っていた不幸が、偶然ではなかった。

すべてを理解した田島は、病院へ行きます。

眠り続ける倉持のそばに立ち、その首を絞めます。

そこで小説は終わります。

そして、おれは殺人の門を越えたのだろうか、と自分に問いかける。

倉持が死んだかどうかは、書かれていません。門を越えたのかどうかも、田島自身に分からないまま終わります。

私は、これ以外の終わり方はなかったと思っています。

この小説は、人を殺す話ではありません。殺したいのに実行できない人の話です。

何十年も殺意を持ち続けながら、ずっと実行できなかった男。その人が最後に手を動かして、それでも答えが出ない。

門を越えたのかどうかを、本人にも決めさせない。そこが、この結末の怖さだと思います。

イヤミスという言葉——東野圭吾でいちばん後味が悪い一冊

この小説は、イヤミスという言葉と一緒に語られることがあります。

イヤミスは「イヤな気分になるミステリー」の略です。真相は分かるのに、気持ちよくならない。読む前より嫌な気分になって本を閉じることになる——そういう作品を指します。

ふつう、この言葉は湊かなえさんや真梨幸子さん、沼田まほかるさんの作品に使われます。東野圭吾さんは、イヤミス作家として数えられる人ではありません。

でも、イヤミスは作家につく言葉ではなく、作品につく言葉です。

その意味で『殺人の門』は、堂々とイヤミスだと思います。わたしには、東野圭吾作品の中でも、とりわけ後味の重い一冊でした。

なぜそう呼ばれるのか。理由ははっきりしています。

この小説には、気持ちよくなる場所が一つもありません。

田島は何十年も搾取され続けます。やり返すこともできません。

倉持は反省しません。最後まで、悪いと思っていない。

そして田島は、長いあいだ実行できないまま、殺意だけを抱えて生きていきます。

裁きもなければ、和解もありません。

ただ、私はこの言葉で片づけたくないとも思っています。

『告白』でも同じことを書きましたが、後味が悪いのと、悪趣味なのは違います。

この小説が嫌な気分にさせるのは、わざと不快に書いているからではありません。

「殺せない人」の内側を、ごまかさずに書いているからです。

わたしには、憎しみを持ち続ける苦しさが強く残りました。

誰も書きたがらないその部分を、最後まで書いた。だから読後感が重いんです。

曲に込めたこと

この物語をもとに作った曲は、田島の視点で書きました。

恨みの歌にはしていません。

あの人の中にあったのは、恨みより疲れだった気がするので。

何十年も同じことを繰り返して、まだ終わっていない。

その重さだけを歌にしました。

メロディも、盛り上げていません。

復讐の歌にすると、格好よくなってしまうので。

あの人の日常は、格好よくなかったはずです。

朝起きて、仕事に行って、またあの男のことを考える。

その繰り返しのほうを書きました。

もう一冊の東野圭吾——『夜明けの街で』は、線を越えてしまった男の話です

田島は、長いあいだ実行できませんでした。別の形で線を越える小説があります。同じ東野圭吾の『夜明けの街で』です。

主人公の渡部は、どこにでもいる会社員です。妻がいて、娘がいて、不倫を軽蔑していた。その人が、派遣社員の女性と関係を持ちます。

田島と渡部は、同じ場所に立たされています。越えてはいけない線の、すぐ手前。

行為の重さは違います。田島は実行できない理由を問い続け、渡部は自分の例外を作りながら関係を深めていきます。

そして面白いのは、答えの出ない田島のほうが、読んでいてつらいことです。

渡部は代償を払いましたが、少なくとも終わりはありました。田島には、答えすら残りません。

田島のことが頭から離れない人には、こちらも刺さると思います。→ 『夜明けの街で』渡部はなぜ一線を越えたのか

おわりに

この小説は、気持ちのいい読書ではありません。

救いも、すっきりする結末もない。

でも、読んでおいてよかったとは思っています。

自分の周りに、田島みたいな関係がないか。

あるいは、自分が誰かにとっての田島になっていないか。

逆に、自分が倉持のようになっていないか、というのも考えました。

あそこまでひどくなくても、いつも甘えてしまう相手っています。

断らない人に、つい頼んでしまう。

こっちの立場になっている可能性も、ゼロじゃない。

そこを一度考えておくのは、無駄じゃない気がします。

2027年2月には、映画も公開される予定です。

観る前に原作を読んでおくのを、おすすめします。

この作品は、派手な場面で見せる話ではありません。

だから、映画でどう組み立てるのかが気になります。

何十年もの時間を、どう二時間に収めるのか。

公開されたら、また記事にしたいと思っています。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

東野圭吾作品の考察記事

音羽のブログでは、東野圭吾さんの作品をほかにも書いています。

よかったら、あわせて読んでみてください。

→ これまでに考察した作品の一覧はこちら

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