東野圭吾さんの『虚ろな十字架』の話をします。
読み終わったあと、何日か引きずりました。
答えが出ない話なので。
今回は、浜岡小夜子(はまおか さよこ)という人のことを書きます。
元夫は中原道正(なかはら みちまさ)。作中では二人とも下の名前で呼ばれる場面が多いので、この記事でも小夜子・道正と書きます。
娘を殺された母親です。
あくまで音羽の勝手な読み方です。正解を書くつもりはありません。
それと、この記事では死刑制度そのものに賛成も反対もしません。
わたしに、そこまでのことは言えないので。
※この記事は原作小説についての考察です。結末に触れます。未読の方はご注意ください。
いちおう、本の枠だけ。
『虚ろな十字架』は2014年に出た東野圭吾さんの長編です。
2026年には、香取慎吾さん主演でWOWOWの連続ドラマになりました。監督は瀬々敬久さん、全四話です。
東野圭吾さんの作品の中では、かなり社会派に寄った一冊です。
トリックで驚かせる本ではありません。
読者に考えさせるために書かれた小説だと思います。
東野圭吾さんは、こういう本をときどき書きます。
『手紙』では加害者の家族を、『白鳥とコウモリ』では両方の家族を書いていました。
この考察ブログでも、その二冊は記事にしています。
罪のあと、人がどう生きるか。
この人はずっと、そこを見ている気がします。

どういう話か
ある夫婦に、娘がいました。
愛美という女の子です。
その子が、空き巣に入った男に殺されます。
八歳でした。
夫婦は、犯人の死刑を求めます。
そして、実際に死刑判決が出る。
普通の物語なら、ここで終わりです。
でも、この小説はここから始まります。
しかも犯人には、前科がありました。
過去に強盗殺人で無期懲役となり、仮出所しているあいだに、愛美を殺しました。
ここが、この物語のいちばん重いところです。
少なくとも、この男の再犯を防ぐことはできませんでした。
あのとき、ちゃんと更生していれば愛美は死ななかった。
遺族からすれば、そう思うのは当然です。
更生って、言葉としてはきれいです。
でも、誰がそれを確認するのか。
外から見えるのは、態度や言葉だけです。
この小説は、その曖昧さを突いてきます。
▼ 小夜子の想いを歌にしたオリジナル曲はこちら
死刑になっても、戻らない
死刑が確定したあと、夫婦は離婚します。
理由は、たぶんひとつじゃありません。
ただ、お互いを見ていると娘を思い出す。
顔を合わせるのがつらい。
目的が終わってしまった、というのも大きいと思います。
死刑にする、という一点で、二人はつながっていました。
それが達成された瞬間に、つなぐものがなくなった。
切ないです。
同じ悲しみを持っている人と、一緒にいられないことがある。
外から見れば、支え合えばいいのにと思います。
でも、片方が泣いていると、もう片方も崩れる。
だから、離れるしかなかった。
悲しみって、分け合えば軽くなるとは限らないんだと思います。

小夜子が書きはじめる
離婚したあと、小夜子はフリーライターになります。
そして、死刑について書きはじめる。
取材して、原稿を書いて、発表する。
わたしは、これを執念とは呼びたくないんです。
あの人は、たぶん続けるしかなかった。
書くことは、娘の死と向き合いながら生き続ける方法でもあったのかもしれません。
動き続けることでしか、立っていられない人っています。
仕事にのめり込むのも、同じ理屈だと思います。
忙しくしていれば、考えなくて済む。
そこには、ほかの遺族を支えたいという思いも重なっていたように見えます。
でも、そうやって何年かをやり過ごす人はたくさんいます。
小夜子の取材も、そのどちらでもあった気がします。
逃げることと、向き合うことは、きれいに分かれません。
その二つは、たいてい混ざっています。
死刑は無力だ、という言葉
作中に、こういう考え方が出てきます。
死刑は無力だ、と。
でも、意味が普通とちょっと違います。
死刑になっても、被害者は戻らない。
遺族の苦しみも消えない。
その意味では、たしかに無力です。
ただ、だから廃止すべきだという話にはなりません。
無力でも、必要なものはある。
小夜子の立場は、そういう場所にあった気がします。
無力だから要らない、というのは乱暴な話です。
被害者を取り戻せないことと、刑罰に意味がないことは、同じではありません。
この小説は、その隔たりを考えさせます。
ただ、それで救われるかというと、別の問題です。
制度は、社会のためにあるものです。
個人の心を救うようには作られていない。
そこを期待すると、必ず足りなくなる。

反省しない加害者
この小説がえぐいのは、ここです。
刑務所に入っても、反省しない人がいる。
形だけ謝って、出てきて、また同じことをする。
刑期を務めることと、反省することは別なんです。
タイトルの十字架は、そのことを言っています。
わたしは、背負っているように見えて中身が空っぽな状態のことだと読みました。
罰を受けることと、罪を自覚して生きることは同じではない。この題は、そのずれを問いかけているように思います。
刑務所に入っている人が、全員反省しているわけじゃない。
当たり前といえば当たり前ですが、普段は考えません。
入ったなら反省しているだろう、と思ってしまう。
でも、ただ時間が過ぎるのを待っている人もいる。
出所したら、また同じことをする人もいる。
この事実を突きつけられると、刑罰って何なんだろうと思います。
罰は、外から与えられます。
反省は、内側からしか出てこない。
その二つは、つながっているようで別物です。
逆のパターンもある
一方で、罰を受けていないのに、ずっと苦しんでいる人も出てきます。
罪が明るみに出ないまま、何十年も生きてきた人。
その人は、自分なりのやり方で償おうとしています。
人の役に立つ仕事を選んで、真面目に生きている。
罰を受けた人が反省せず、罰を受けていない人が苦しんでいる。
この逆転が、この小説の芯だと思います。
しかも、この人は誰にも言えません。
言えば、いまの生活が全部なくなる。
だから黙って、ひとりで背負い続けている。
誰にも見えない十字架です。
こっちのほうは、たぶん虚ろではない。
とはいえ、本人が苦しんでいることと、被害を受けた側が納得することは、まったく別です。
苦しんでいるからいい、という話にはなりません。
でも、そこは割り切れない
ただ、わたしはここで引っかかります。
立派に生きているから、罪が消えるわけではありません。
その人が救ったいくつもの命と、奪った命は、交換できないので。
作中の人物も、そこを問われます。
償いのつもりで生きることと、法で責任を問われることは違う。
東野圭吾さんは、そこを逃げずに書いていると思います。
立派に生きれば許される、という話にしてしまうと楽です。
でも、それだと被害者の側が置き去りになります。
償いは、加害者のためのものになりがちなんですよね。
自分が楽になるために謝る。
そこを見抜かれると、何も言えなくなります。
▼ 『虚ろな十字架』の世界を描いたオリジナル曲
小夜子が殺される
娘を失ってから十一年が過ぎ、今度は小夜子自身が殺されます。
娘を殺された母親が、今度は自分も殺される。
しかも、彼女が書こうとしていたことが原因でした。
隠したい過去を持つ誰かにとって、彼女は邪魔だった。
この展開は、読んでいてつらかったです。
あの人は、最後まで報われません。
娘も戻らず、自分も殺される。
それでも、彼女が書きためた取材の記録は残ります。
人がいなくなっても、書いたものは残る。
そこだけが、わずかな救いだと思いました。
書くという行為には、そういう性質があります。
歌も、たぶん同じだと思っています。
作った人がいなくなっても、鳴り続けるので。
それでも、書いていた
わたしがいちばん考えたのは、そこです。
小夜子は、なぜ書き続けたのか。
自分のためだけなら、途中でやめられたはずです。
たぶん、ほかの遺族のためでもあったんだと思います。
自分と同じ目に遭う人を、ひとりでも減らしたかった。
娘の死を、意味のあるものにしたかった。
本当は、意味なんてないはずなのに。
それでも探してしまう。
意味のない死を、意味のない死のまま置いておけない。
それは弱さじゃなくて、人が生きるための仕組みなんだと思います。
何かの役に立ったと思えないと、前に進めない。
小夜子は、それを自分の手でやろうとした人でした。
遺族が求めるもの
遺族は死刑を望むもの、と思われがちです。
でも、実際はもっと複雑だと思います。
厳しい刑罰を求める気持ちと、なぜ殺したのかを知りたい気持ちは、簡単には分けられません。
なぜ殺したのか、ちゃんと答えてほしい。
本気で悔やんでほしい。
でも、それは強制できません。
心の中までは、判決で決められないので。
そのどれも、判決では決められません。
元夫のこと
元夫の中原も、忘れられない人です。
この人は、小夜子とは逆の方向に進みます。
思い出さないようにして、日常を取り戻そうとした。
ペット葬儀の仕事をしながら、日常を立て直そうとしていました。
逃げているように見えるかもしれません。
でも、あれも生き延びる方法のひとつです。
向き合う人と、距離を置く人。
どちらが正しいという話ではないと思います。
そして、小夜子の死をきっかけに、彼はもう一度動きはじめます。
結局、逃げ切れなかった。

結末——小夜子を刺したのは、誰だったのか
ここから結末に触れます。
小夜子を刺したのは、町村作造という男でした。すぐに自首してきます。
本人は「金目当ての行きずりの犯行だ」と言います。
でも、警察がいくら調べても、町村と小夜子の接点が出てきません。嘘だったからです。
町村は、仁科史也という小児科医の、妻の父親でした。
そして二十一年前、史也は高校生でした。
当時、史也には井口沙織という恋人がいました。沙織は妊娠し、二人のあいだに子どもが生まれます。
二人は、その赤ん坊の命を奪い、埋めました。
二十一年、誰にも知られないまま来ました。
その沙織が、小夜子に打ち明けたんです。
小夜子は、遺族の立場から死刑について書き続けていたフリーライターでした。彼女は沙織に自首をすすめ、同時に、史也にも償わせるべきだと考えます。
町村は、それを知りました。
娘が築いた家庭があります。医師になった婿がいて、孫がいて、幸せに見える生活がある。
それを壊されると思った町村は、口を塞ぐために小夜子を刺しました。
死刑について書いていた人が、死刑制度とは何の関係もない理由で殺される。この皮肉が、この小説の中心にあります。
最後、史也と沙織は自首します。ただ、赤ん坊の遺体も遺留品も見つからず、二人は起訴されませんでした。罪を認めることと、法で裁かれることさえ、一致しません。
そして中原道正は、ペット葬儀の仕事に戻っていきます。
タイトルの「虚ろな十字架」は、作中で使われる言葉です。
刑務所に入っても、本人が何も感じていなければ、その罰は空っぽだ。——そういう意味で出てきます。
では、二十一年間だまって生きてきた史也が背負っていたものは、空っぽだったのか。
自分と娘の家庭を守ろうとして、小夜子の命を奪った町村の十字架は、どうなのか。
東野圭吾は答えを出しません。出さないまま、読者に持たせて終わります。
曲に込めたこと
この物語をもとに作った曲は、小夜子の視点で書きました。
裁判のことも、制度のことも入れていません。
書いたのは、判決が出たあとの静けさです。
望んだ結果が出たのに、何も変わらなかった朝。
あそこが、あの人にとっていちばん長い時間だったと思うので。
判決の日は、たぶん終わりの日じゃありません。
世間にとっては区切りですが、遺族にとっては続きです。
報道が終わって、周りが日常に戻って、そこからがひとりになる。
メロディも、静かなままにしています。
怒りの歌にはしませんでした。
表に出る怒りよりも、判決のあとに続く静かな時間を書きたかったので。
もう一冊の東野圭吾——『手紙』は、加害者の家族の話です
『虚ろな十字架』は、罰が誰を救うのかを問う小説です。その問いの、もう一つの側から書かれた作品があります。同じ東野圭吾の『手紙』です。
兄が強盗殺人を犯し、刑務所に入ります。弟は何もしていません。それでも、兄の犯罪が知られるたびに、仕事や恋愛に影響が出ていきます。
裁かれたのは兄です。でも、罰を受け続けるのは弟のほうでした。
『虚ろな十字架』が問うていた「罰は誰のためにあるのか」という問いに、『手紙』は別の角度から答えを出そうとしています。
遺族にとって、死刑は本当に救いになるのか。加害者の家族は、どこまで背負えばいいのか。どちらも答えは出ません。東野圭吾も、出していません。
被害者の側から見たいなら、『白鳥とコウモリ』も同じ場所に立っています。被害者の娘と加害者の息子、その両方を並べた小説です。
おわりに
この本は、答えをくれません。
死刑に賛成とも反対とも書いていない。
どちらの側にも、うなずける言い分が置いてあります。
読者は、自分で考えるしかない。
しんどい読書ですが、たぶんそれが正しい形です。
簡単に答えが出る話なら、こんなに議論になっていないので。
日本では、裁判員裁判もあります。
普通に暮らしている人が、人の生死を決める側に呼ばれることがある。
もし自分がその席に座ったら、と考えると、この小説は他人事になりません。
読んでおいて損はない一冊だと思います。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
東野圭吾作品の考察記事
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