『希望の糸』の話をします。
東野圭吾さんの、加賀恭一郎シリーズの十一作目です。二〇一九年に出ました。
※この記事は、犯人も結末も書いています。これから読む方はご注意ください。
- どういう話か
- 加賀恭一郎は、ほとんど出てきません
- 登場人物の読み方
- 二〇〇四年十月二十三日
- 三人目を持つ、という決断
- 「代わり」という言葉について
- 体外受精を選ぶということ
- 院長の告白
- 悪意がなくても、傷は残る
- 妻が先に逝った
- 娘が知ってしまう
- 萌奈の側から見ると
- 汐見は、本当のことを話した
- 血のつながりは、何を保証するのか
- 汐見がやろうとしていたこと
- 花塚弥生という人
- 松宮という刑事のこと
- 結末——誰が花塚弥生を殺したのか
- タイトル『希望の糸』の意味
- 三人目は、代わりだったのか
- もう一冊の東野圭吾——『手紙』と並べると
- この小説が合う人、合わない人
- もし自分が汐見だったら
- 大人になってから読むと
- 曲に込めたこと
- おわりに
- 東野圭吾作品の考察記事
どういう話か
自由が丘でカフェをやっていた花塚弥生が殺されます。
捜査をするのは松宮脩平。加賀恭一郎の従弟で、捜査一課の刑事です。
容疑者のひとりに、常連客の汐見行伸がいます。
この記事は、その汐見の側から書きます。事件を追う話としてより、ひとりの父親の話として読みたかったので。
加賀恭一郎は、ほとんど出てきません
先に書いておきます。
この本は加賀恭一郎シリーズとされていますが、加賀は主役ではありません。
動くのは松宮です。加賀は、ときどき現れて、短いことを言って帰っていく。
だから、シリーズを読んでいなくても大丈夫です。これ一冊で完結します。
逆に、加賀が事件とがっつり四つに組むのを期待すると、そこは肩透かしを食います。
登場人物の読み方
- 汐見行伸(しおみ ゆきのぶ)——この記事の主役にする人
- 松宮脩平(まつみや しゅうへい)——捜査一課の刑事。加賀恭一郎の従弟
- 花塚弥生(はなつか やよい)——殺された、カフェの店主
- 綿貫哲彦(わたぬき てつひこ)——弥生の元夫
- 汐見萌奈(しおみ もな)——行伸の娘
「行伸」は「ゆきのぶ」と読みます。

二〇〇四年十月二十三日
汐見夫婦には、子どもが二人いました。
長女の絵麻が小学六年生。長男の尚人が小学四年生。
新潟にある妻の実家に行っていたときに、地震が起きます。二人とも亡くなりました。
ここを「東日本大震災」と書いている紹介をいくつも見かけましたが、違います。二〇〇四年の中越地震です。
二〇〇四年十月二十三日、夕方。新潟県中越地方を震源とする地震が起きました。
汐見の子どもたちは、そのとき新潟にいました。
親がすぐそばにいたわけではない。そこがこの人の、ずっと消えないところだと思います。
三人目を持つ、という決断
子どもを二人とも失ったあと、夫婦は三人目を持とうと決めます。
これが、読んでいて一番重いところだと思います。
欲しかったから、ではないんです。これから先も生きていくために、という理由です。
子どもを作る理由として、これはかなり強い。生きていけないから生む、ということなので。
不妊治療をして、体外受精で娘が生まれました。
「代わり」という言葉について
ここでひとつ、言いにくい話が出てきます。
三人目は、二人の代わりだったのか。
汐見はそう思われたくなかったはずです。でも、周りはそう見ます。そして一番そう思いたくないのは、たぶん娘本人です。
自分が生まれた理由が、先に死んだ兄姉だった。その事実は、どうやっても消せません。
「あの子たちがいたからこそ生まれた」という言い方は、優しそうに聞こえます。
でも裏返すと、「あの子たちが生きていたら生まれていなかった」になります。
三人目として生まれた子は、この裏表を自分でどうにかするしかありません。
体外受精を選ぶということ
子どもを二人失った時点で、夫婦はもう若くなかったはずです。
自然に授かるのを待つ時間はない。だから医療に頼る。
これは、急いでいたということです。
急いで病院へ行って、その病院で取り違えが起きた。
そういう順番になっているのが、読んでいて一番こたえました。急がなければよかった、とは言えないんです。急がなければ、娘は生まれていないので。

院長の告白
妻が妊娠しているあいだに、クリニックから呼び出されます。
受精卵の取り違えがあったかもしれない。
それでも夫婦は、この子を産んで育てると決めました。
中絶できる時期のうちに遺伝子検査はできなかったので、確かめないまま産んだんです。
生まれた萌奈は、汐見夫婦のどちらにも似ませんでした。
似ないまま育っていく娘を見ながら、汐見は確信を深めていきます。
遺伝上の親は、綿貫哲彦と花塚弥生。あとで殺されることになる、あのカフェの店主です。
悪意がなくても、傷は残る
誰かが悪意でやったことじゃない、というのがこの話のつらいところです。
わざとやられたのなら、怒りを向ける相手がいます。
取り違えを望んだ人は、どこにもいません。弥生の側も、同じ目に遭っています。
ただ、悪意がなかったことと、誰のせいでもないことは違います。これは医療の側が起こした過ちです。
汐見は、二度子どもを失っています。一度目は地震で。二度目は、病院の過ちで。
クリニックの院長は、黙っていることもできました。
言わなければ、誰も気づかなかったかもしれない。
言ってしまったから、全部が始まります。
正直に話すことが、必ずしも誰かを楽にしない。この本はそこも言っている気がします。
妻が先に逝った
そのあと、妻が病気で亡くなります。
子どもを二人失ったことも、取り違えのことも、分かち合える相手がいなくなりました。
残ったのは、汐見と娘の二人。そしてその二人は、血がつながっていません。
娘が知ってしまう
やがて娘のほうが、何かおかしいと思いはじめます。
ただ、萌奈が疑ったのは取り違えじゃありませんでした。母の不倫で生まれた子なんじゃないか、と思ったんです。
死んだ兄姉の身代わりに育てられている、という窮屈さもありました。
だから父娘の関係は、真実より先に、誤解のほうで崩れます。
萌奈の側から見ると
この記事は汐見の話ですが、娘の側も書いておきます。
萌奈が抱えていたのは、二つです。
ひとつは、自分が死んだ兄姉のあとに生まれた子だということ。
もうひとつは、父とのあいだに何か隠されている、という感じです。
自分がこの家の子どもであることを、何に支えればいいのか。それまで当たり前だったものが、足元から揺らいだのだと思います。
それで親を拒むのは、わたしは自然なことだと思います。

汐見は、本当のことを話した
関係が悪くなったまま、終盤になって汐見は萌奈に打ち明けます。
不倫で生まれた子じゃない。受精卵が取り違えられていた。
そして、それを知ったうえで産んだ、と。
これを言うのは、相当怖かったと思います。
血がつながっていないことを、自分の口から娘に伝えることになるので。
でも、話したことで関係が終わったわけじゃありませんでした。
そこから父と娘は、もう一度向き合いはじめます。
萌奈は、遺伝上の親に会いたいとは言いませんでした。
わたしはここが、この小説でいちばん好きなところです。
血のつながりは、何を保証するのか
この小説は、そこを何度も聞いてきます。
汐見は娘を十何年育てています。弥生は、母親として名乗り出ることもできないまま、学校のそばから部活中の萌奈を見ていました。
でも娘の体に流れているのは弥生のほうです。
どっちが親か。この問いに、東野さんは答えを出しません。出さないまま、二つを並べます。
汐見がやろうとしていたこと
関係が悪くなったあと、汐見はあることを考えます。
娘を、弥生に会わせようとしたんです。
これをどう受け取るかで、この人の見え方が変わります。
血のつながった母親に会わせれば、娘が自分から離れていくかもしれない。
汐見には、そんな怖さもあったんじゃないかと思います。
それでも会わせようとした。そこが、わたしはこの人の一番いいところだと思います。
花塚弥生という人
弥生の側にも、同じだけのことが起きています。
自分の子どもが、別の家で育っていた。
弥生がそれをどう思っていたかは、本人が殺されてしまうので、ついに全部は語られません。
死んだ人が何を考えていたのか分からない。この書き方は、東野さんがよくやります。
松宮という刑事のこと
事件を追う松宮にも、自分の父親の話が並行して流れます。
会ったことのない父親。別の家庭。
汐見の側と、松宮の側。二つの親子が同じ本の中に入っているのは、たぶん偶然じゃないです。
結末——誰が花塚弥生を殺したのか
犯人は中屋多由子。綿貫哲彦の内縁の妻です。
汐見ではありませんでした。
汐見にも怒りはあったように読めました。それでも、殺していません。
東野さんの小説には、「殺せなかった人」がよく出てきます。『殺人の門』の田島もそうでした。
タイトル『希望の糸』の意味
糸という言い方が、うまいと思います。
絆だと強すぎる。縁だと軽すぎる。
糸は、切れます。結べばつながります。自分で結ばないと、つながらない。
血は、結ばなくてもつながっています。でもそれだけでは家族にならない。
この題名は、そういうことだと思います。
三人目は、代わりだったのか
最初の問いに戻ります。
わたしは、違うと思います。
二人を失ったことが、もう一度子どもを望むきっかけになった。それは確かです。
ただ、それを「代わり」と呼んでいいのかは、簡単に決められません。育てているうちに、代わりではなくなったと思うんです。
十何年も一緒にいて、代わりのままでいられるはずがない。
だから汐見は、血のつながった母親に会わせようとしたんだと思います。
自分が親だと思っていなければ、そんな危ういことはしないはずなので。
もう一冊の東野圭吾——『手紙』と並べると
東野さんは、「自分が選んでいないことで人生が決まる人」を何度も書いています。
『手紙』の直貴は、兄が人を殺しただけで人生を変えられます。本人は何もしていない。
『白鳥とコウモリ』も、親の罪を子どもが背負う話でした。
この二冊は、「血のつながりが味方をしてくれない」話です。
『希望の糸』は逆です。血がつながっていないことが、自分の居場所を崩します。
同じ作家が、表と裏から同じものを見ている感じがします。
この小説が合う人、合わない人
ミステリとしての驚きを期待すると、たぶん物足りないです。
犯人が誰かより、その周りにいる人たちの事情のほうが重い。
逆に、家族の話として読むならかなりこたえます。
あと、不妊治療をしている方や、していた方には、重いかもしれません。そこは先に書いておきます。

もし自分が汐見だったら
娘を、本当の母親に会わせられるだろうか。
正直に言うと、自信がないです。
会わせたら、向こうを選ぶかもしれない。そう思ったら、手が止まる気がします。
汐見も、止まらなかったわけではないと思うんです。止まった上で、それでもやろうとした。
その差は、かなり大きいと思います。
大人になってから読むと
この本は、親になった人と、なっていない人で、読後感がかなり違うと思います。
あと、子どもの側で読むか、親の側で読むかでも変わります。
わたしは今回、親の側で読みました。だからこの記事は汐見の話になっています。
娘の側から読めば、ぜんぶ別の話になるはずです。
曲に込めたこと
この作品の曲は、これから作ります。できたらここに追記します。
汐見の視点で書くつもりです。事件のことは歌詞に入れません。
おわりに
子どもを二人失って、生きていくために三人目を持った。その子は、受精卵の取り違えで授かった子だった。
文字にすると、あまりにもひどい話です。
それでもこの人は、最後に娘のために動こうとしました。そこだけは覚えておきたいと思います。
読み終わって残ったのは、悪意がなくても人生は変わってしまう、という感覚でした。
地震は誰のせいでもない。取り違えは、悪意ではないけれど病院の過ちです。
それでも、子どもは死ぬし、親子はこじれる。
ただ、こじれたあとに、結び直せることもある。だから『希望の糸』なんだと思います。
東野圭吾作品の考察記事
音羽のブログでは、東野圭吾さんの作品をほかにも書いています。
