横溝正史の『蔵の中』の話をします。
横溝正史というと、金田一耕助のイメージが強いと思います。八つ墓村とか、犬神家とか。
でもこの『蔵の中』に、金田一は出てきません。
薄暗い蔵の中の、静かな回想から始まります。それが途中で、外の世界の惨劇につながっていく。
なのに、読み終わったあとがいちばん長く残る。
わたしにとっては、そういう作品です。
以下は音羽の勝手な読み方です。正解を書くつもりはありません。
いちおう、話の枠だけ。
『蔵の中』は1935年に発表された中編です。横溝正史が探偵小説から少し離れて書いていた時期の作品にあたります。
編集者の磯貝三四郎のところに、蕗谷笛二という青年が「蔵の中」という原稿を持ち込む。物語は、その原稿の内側へ入っていきます。
原稿の中で笛二は、生家の蔵に戻り、胸を病んで亡くなった姉・小雪のことを書いています。
その関係を、読者は少しずつ知らされていきます。
江戸川乱歩の作品にも近い空気があって、当時のこの手の小説が好きな人にはたまらないと思います。
あと、この小説は「書く人」が出てくる構造になっています。
当事者が書いた原稿を、別の誰かが読んでいる。
だから読者は、直接その場を見ているわけじゃないんです。
原稿というフィルターを一枚はさんで、のぞいている感じ。
その一枚のフィルターが、話をよけいに不気味にしています。
本当のところはどうだったのか、最後までわからない。
わからないまま終わる、というのが、この作品のいちばんの怖さかもしれません。
全部説明されたら、読者はそこで手を離せます。
説明されないから、ずっと考えてしまう。
説明しきられない部分が残るからこそ、読み終わってもこの物語から離れられませんでした。
その意味では、けっこう強気な小説です。
※内容に触れています。これから読む方はご注意ください。

蔵という場所
舞台は、古い家の蔵です。
窓は小さくて、光がほとんど入らない。
湿気があって、埃のにおいがして、時間が止まっている。
原稿の中では、そこで姉と弟が過ごした時間が語られます。
外の世界とは、ほとんど関わらない。
読んでいると、だんだん自分まで空気が薄いところにいる気になってきます。
あの閉じた感じの書き方は、ちょっと異常だと思います。いい意味で。
蔵って、そもそも物をしまっておく場所です。
人が住むところじゃない。
大事なものを、外の目に触れさせないように置いておく場所。
そこに人を住まわせている時点で、もう答えが出ている気がします。
しかも蔵は、燃えにくく、壊れにくい建物です。
守るために作られている。
守るための建物が、そのまま檻になる。
この言葉遊びみたいな構造が、たぶんこの小説の核です。
ここからは作品を離れた連想ですが、人を家の奥へ置ける作りというのは、たしかにあったのだろうと思います。
外から見えない部屋がある。近所も踏み込んでこない。
病気の人を家の奥に置く、というのも、当時は珍しくなかったはずです。
だからこの話は、特殊なようでいて、実はどこにでもあった風景なのかもしれません。
でも誰も踏み込まない。
見て見ぬふりって、いつの時代にもあります。
笛二の読み方は「ふえじ」——蕗谷笛二という青年
名前の読み方を、先に書いておきます。
- 蕗谷笛二(ふきや ふえじ)——この原稿を書いている青年
- 横溝正史(よこみぞ せいし)——作者
「笛二」で「ふえじ」。初見では読み方に迷う名前です。名字の「蕗谷」は、ふきや、と読みます。
名前からして、どこか現実から浮いています。この物語の空気そのものだと思います。

姉のこと
姉の小雪は、胸を病んでいました。そして、笛二が原稿を書いている時点では、もう亡くなっています。
でも、じたばたしません。
死ぬのが決まっている人の落ち着き方、というのがあるんだと思います。
むしろ、生きている側のほうが取り乱している。
蔵には、姉の着物や玩具が櫃にしまわれています。笛二はそれを取り出して、思い出にふける。
着物の色や手ざわりを書く筆が、やけに丁寧なんです。
わたしはそこに、美しかったものを失いたくない、という思いを感じました。
もう誰にも見せられないのに、だからこそ手放せない。
そういう執着が、この文章にはあります。
人は、失ったものほどきれいに覚えているものだと思います。
笛二が書いている姉も、たぶんそうやって磨かれた姿です。
本当の姉がどんな人だったのかは、読者には分かりません。
姉のほうは、どう思っていたのでしょう。
弟が自分をどう見ていたか、気づいていたのかもしれません。
気づいていて、何も言わなかったのかもしれません。
ただ、それを確かめる手がかりは、原稿の中にありません。
そう読むと、ますます救いがないです。
着物を取り出すとき、笛二がどんな顔をしていたのか。
そこは書かれていません。
でも、たぶん幸せそうな顔だったのではないかと思います。
それがいちばんきつい。
人が壊れていくとき、本人は苦しそうな顔をしていないことがあります。
むしろ、満ち足りて見えたりする。
だから周りも気づけない。
▼ 『蔵の中』をもとに書いたオリジナル曲はこちら
弟のこと
笛二は、姉との時間を手放せないまま、生家の蔵に戻ってきた人です。
そこで、もういない人のことを書き続けている。
献身的だと言えば、そうです。
でも、たぶんそれだけじゃない。
弟が姉を閉じ込めた、とまでは言えません。
それでもわたしには、二人だけの時間を失いたくない執着が感じられました。
終わってしまったあとも、手放せないでいる。
蔵に戻るというのは、そういうことだと思うんです。
本人は、それを執着だとは思っていないかもしれません。
自覚のないまま続くものは、たぶんいちばん止めにくい。
本人はよかれと思ってやっているので、指摘されても意味がわからない。
弟は、たぶん一生気づかなかったんじゃないでしょうか。
自分がやさしい人間だと思ったまま終わる。
ここからは作品を離れた連想です。
誰かの世話をする役割が、その人自身の逃げ道を狭めることがあります。
えらいね、と言われてしまうと、なおさら降りられない。
その評価が、あの子から逃げ道を奪っていく。
やめられなくなるんですよね、褒められると。
世話をする側が、自分の人生を止めてしまうこともあります。
弟には、外に出る選択肢もあったはずなんです。
でも、出なかった。
出られなかったのか、出たくなかったのか。
そこがずっと曖昧なまま話が進みます。
曖昧なまま置いておく、というのは書き手として勇気がいることだと思います。
読者は、はっきりさせてほしいので。
横溝正史は、そこを最後まで渡してくれません。

守るのと、閉じ込めるのは似ている
この小説を読んでいると、その境目がどんどんわからなくなります。
世話をしているのか、離さないでいるのか。
心配しているのか、独占しているのか。
たぶん、両方なんです。
人の気持ちって、そんなにきれいに分かれていない。
ここを書き分けずに、混ざったまま出してくるところが、この作品のすごさだと思います。
介護をしている人の話を聞くと、似たようなことをよく聞きます。
大事に思う気持ちと、しんどい気持ちが同時にある。
どっちかが嘘というわけじゃない。
九十年前の小説なのに、そこがちゃんと書かれている。
人の心の作りって、そんなに変わらないんだなと思います。
善意と支配が混ざっている、というのは、家族の話ではよく出てきます。
親子でも、夫婦でも。
あなたのためだから、という言い方をされたとき、けっこう危ないと思っています。
言われた側は、反論できないんですよね。
相手は善意で言っているので、怒るわけにもいかない。
その静かな詰み方が、この小説の中にもずっとあります。
声を荒らげる場面が、ほとんどないんです。
それなのに、終わりには血の匂いがする。
静かなまま、全部終わっていく。
姉弟の距離
二人の関係は、どう見ても普通じゃありません。
でも、それを直接的には書かないんですよね。
視線とか、手つきとか、そういうところでにおわせるだけ。
明示されないことで、想像のほうが膨らみます。
言わないから、読んでいるこっちが勝手に想像してしまう。
うまいなあ、と思います。
こういう関係を、いまの言葉で説明しようとすると、たぶん失敗します。
名前をつけた瞬間に、別のものになってしまうので。
横溝正史は、そこをわかっていて書かなかった気がします。
薄暗さの中に置いたまま、こちらに渡してくる。
結末——あの原稿を書いたのは誰で、何が起きていたのか
この小説は、入れ子になっています。
まず、編集者の磯貝三四郎のところに、笛二と名乗る少年が自分で書いた原稿を持ち込む。そこから始まります。
原稿の中では、笛二が胸を病んだ姉・小雪と、蔵の中で暮らしています。
そして笛二は、蔵にあった遠眼鏡で崖下の一軒家をのぞくようになる。
そこで、女と中年の男の諍いを見てしまいます。そして、その先の惨劇も。
仕掛けは、ここです。
その中年の男が、いま原稿を読んでいる磯貝本人でした。
原稿に書かれた男の姿が、読んでいる自分と重なっていく。
目撃されていたのではないかと動揺した磯貝は、笛二のもとへ向かいます。
そして、そこから先で、読者が信じていた原稿と現実の関係が、もう一度ひっくり返ります。
犯人が捕まる場面はありません。裁かれもしない。
読み終わったあと、どこまでが原稿で、どこからが現実なのかが、きれいに溶けてしまいます。
1935年にこれを書いているのが、ちょっと信じられません。
九十年前に、ここまで読者を揺さぶる作りを選んでいる。
それでも横溝正史は、読者を気持ちよく着地させる気がありませんでした。
蔵の中をのぞかせておいて、のぞいていたのはこちらだった、と言われる。そういう終わり方です。
金田一が出てこない横溝正史
『蔵の中』が書かれたのは1935年です。
戦後の金田一シリーズより、だいぶ前。
このころの横溝正史は、探偵小説というより、耽美的な話をよく書いています。
人が死ぬ理由を解き明かす話じゃなくて、人が壊れていく様子をじっと見る話。
こっちの横溝正史も、わたしはかなり好きです。
謎解きがない分、逃げ場がないんです。

美しさと、気味悪さ
この小説の描写は、けっこう美しいんです。
着物の色とか、埃の舞い方とか、光の入り方とか。
でも、読んでいて気持ちよくはならない。
きれいなのに、どこか腐っている感じがする。
あの独特の匂いが、耽美と言われるゆえんなんだと思います。
きれいなものと、崩れていくものが同じ場所にある。
わたしは、そういう感じの話に弱いです。
滅びていくものを、美しいと思ってしまう気持ち。
あれは、たぶん誰の中にもある。
この小説は、そこをそっと突いてきます。
桜がきれいなのは散るからだ、みたいな話とも、たぶんつながっています。
終わりが決まっているものほど、濃く見える。
姉の美しさが際立つのも、そのせいだと思います。
時代の空気
1935年って、日本がだんだん息苦しくなっていく時期です。
言いたいことが言えない。外に出られない。
蔵の中の話が、それと重なって見えます。
狙って書いたのかはわかりません。
でも、閉じた場所の話がこの時期に生まれたのは、偶然じゃない気もします。
外に出られない話って、時代が窮屈なときによく出てくる気がします。
人は、閉じ込められると、閉じ込められた話を書きたくなるのかもしれません。
あと、この時代の日本には、実際に蔵のある家がまだ多くありました。
家の中に、誰も入らない部屋がある。
そういう場所があると、人はそこに何かを隠したくなるんだと思います。
いまの家には、蔵はありません。
でも、閉じた場所は形を変えて残っている気がします。
部屋にこもる。連絡を絶つ。
やっていることは、あまり変わらないのかもしれません。
だからこの話は、昔話として読めないんです。
九十年前の蔵の話のはずなのに、どこかで見たことがある気がしてしまう。
曲に込めたこと
この物語をもとに作った曲は、弟の視点で書きました。
派手な展開がない話なので、歌もあまり動かさないようにしています。
同じところをゆっくり回るような感じ。
書きたかったのは、蔵の中の時間の流れ方です。
外では季節が変わっているのに、そこだけ止まっている。
音数も、なるべく減らしました。
楽器をたくさん入れると、蔵の狭さが出ないので。
声と、あと少しだけ。それくらいの編成にしています。
歌詞では、姉の名前を呼ぶ場面を一度だけ入れました。
もういない人の名前を呼ぶ、という一瞬を置きたかったんです。
そこを書きたかったんです。
タイトルをどうするかも、けっこう迷いました。
結局、蔵という言葉は入れませんでした。
場所の名前より、そこにあった時間のほうを残したかったので。
もしよかったら、薄暗い部屋で聴いてみてください。
おわりに
誰かを大事にする気持ちは、放っておくと重くなります。
相手のためだと思っていることが、実は自分のためだったりする。
この小説を読むと、そのことをいやでも考えさせられます。
九十年前の話なのに、まったく古びていない。
金田一シリーズしか読んだことがない方には、ぜひ一度おすすめしたいです。
こんな話も書く人なのか、と驚くと思います。
短いので、一晩で読めます。
ただ、読んだあとしばらく引きずるので、寝る前は避けたほうがいいかもしれません。
この記事と曲が、あなたにとって、誰かとの距離を少し考えるきっかけになれば嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
横溝正史の記事では、『八つ墓村』も書いています。
あちらは村の空気が人を怪物にしていく話でした。
こちらは、家の中で閉じていく話です。
外から追い詰められるか、内側で固まっていくか。
向きは逆ですが、逃げ場がないところは同じだと思います。
横溝正史作品の考察記事
音羽のブログでは、横溝正史の作品をほかにも書いています。
テーマでつながる考察
- 『藪の中』(芥川龍之介)——語っている人の話が、どこまで本当か分からない
- 『十角館の殺人』(綾辻行人)——見せられていたものが、最後にひっくり返る
- 『流浪の月』(凪良ゆう)——守っているのか、閉じ込めているのか
- 『八日目の蝉』(角田光代)——囲って育てた四年間の話
音羽(Otowa)について
音羽は、小説や映画、童話を題材に、登場人物の心情を歌にしているチャンネルです。
あらすじをなぞるのではなく、その人が何を感じていたかを想像しながら、歌と文章で書いています。
▼ 『蔵の中』の世界を描いたオリジナル曲
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