『黒革の手帖』元子はなぜ戦ったのか——音羽が考える、地味な女が手にした武器

物語の考察

松本清張の『黒革の手帖』を読んでいると、不思議な気持ちになります。

主人公の原口元子(はらぐち もとこ)がやっていることは、どう考えても犯罪です。銀行から大金を横領し、人の弱みを握って脅す。褒められた話ではまったくありません。

それなのに、読んでいるうちに、いつのまにか彼女を応援している自分がいる。この居心地の悪さこそが、この作品の面白さなのだと思います。

この記事では、その物語を主人公・元子の側から考えてみたいと思います。ただ、これは原作の解説でも、正しい読み方でもありません。あくまで、音羽が想像した元子です。彼女はなぜ、あんな危険な戦いに身を投じたのか。わたしなりに考えたことを書いてみます。

簡単に紹介しておくと、『黒革の手帖』は松本清張が1978年から連載した長編小説です。銀行の女性行員だった原口元子が、顧客の秘密口座の情報を握り、多額の金を持ち出して銀座のクラブのママになる——という物語。米倉涼子さん、武井咲さんなど、何度もドラマ化されているので、映像でご覧になった方も多いかもしれません。

ただ、原作を読むと、映像作品よりもさらに乾いた手触りがあります。派手さよりも、人間の欲望を淡々と積み上げていく筆致。そこがまた、恐ろしいのです。

※物語の展開に触れています。これから読む予定の方は、ご注意ください。


あらすじ——地味な銀行員が、7,568万円を持ち出すまで

『黒革の手帖』は、松本清張が『週刊新潮』に1978年11月から1980年2月まで連載した長編小説です。単行本は1980年6月に出ています。

主人公は、原口元子(はらぐち もとこ)。東京の銀行の支店で働く、ごく普通の女性行員です。

長く勤めても、評価されません。昇進もない。まわりの男たちは、彼女を仕事の相手として数に入れていない。

その元子が、ある日、動かします。

銀行から7,568万円を持ち出すのです。

手口は、架空名義の預金でした。税金から逃れるために、本名を隠して金を預けている人たちがいる。その口座は、持ち主から文句が出ません。文句を言えば、脱税が明るみに出てしまうからです。

元子は、その名簿を黒い手帖に書き写していました。

銀行を辞めた元子は、その金で銀座にクラブを持ちます。ママになる。

そして手帖を使って、客の弱みを一つずつ握っていきます。病院の院長、政治家の秘書、医科進学予備校の理事長。社会的に立派とされている人たちが、次々と彼女の前で顔色を変えていく。

物語の前半は、ほとんど痛快です。誰にも見られていなかった女が、世の中を動かす側にまわっていく。

でも、そこで終わりません。終わらないから、松本清張なのです。

原口元子の読み方は「はらぐち もとこ」——どんな女性か

読み方ははらぐち もとこです。

銀行の女子行員でした。何年勤めても、まわりは彼女を数に入れない。名前をちゃんと覚えられていたかも怪しい。

その元子が、動いていない口座から大金を抜いて、銀座に出ます。クラブのママになる。物語はそこから始まります。

ただ私は、この人を「横領した女」とだけ呼ぶ気になれません。

彼女が盗んだのはお金です。でも取り返そうとしたのは、自分の名前を呼ばせる場所だったと思う。

登場人物と読み方

名前読み方立場
原口元子はらぐち もとこ元・銀行員。銀座のクラブのママ
楢林謙治ならばやし けんじ病院の院長。元子が最初に脅す相手
安島富夫あじま とみお国会議員の秘書
橋田常雄はしだ つねお医科進学ゼミナールの理事長
山田波子やまだ なみこクラブのホステス。元子と対立する

読み間違えやすいのは「楢林(ならばやし)」です。「なら」と読みます。

誰の目にも映らなかった女

昭和50年代の銀行の窓口で伝票を見る女性行員——松本清張『黒革の手帖』原口元子
誰も、彼女のほうを見ていない

物語の始まりの元子は、ごく普通の銀行員です。

地味で、目立たず、誰の記憶にも残らない。若くて華やかな女性には愛想よくする男たちが、彼女のことは景色のように素通りしていく。

わたしがこの導入で胸を突かれたのは、元子が「ひどい目に遭った」わけではないことです。いじめられたわけでも、罵られたわけでもない。ただ、見られなかった。それだけです。

でも、それがいちばんこたえるのだと思います。攻撃されるなら、まだ反撃もできる。存在に気づかれないことには、抵抗のしようがないのですから。

あのまま真面目に働き続けていれば、彼女はどうなっていたでしょうか。たぶん、誰にも顧みられないまま、静かに年を重ねていったはずです。「このままでは終わりたくない」——その感情を、わたしは責める気になれません。

わたしがもうひとつ気になったのは、彼女が「まじめだった」ことです。

元子は、仕事をきちんとこなす有能な行員でした。遅刻もしないし、ミスもしない。それなのに、評価されるのは、愛想のいい若い女性のほう。真面目にやっていることが、まったく報われない。

この「報われなさ」が、彼女の中に静かに溜まっていったのだと思います。人が道を踏み外すのは、たいてい、突然の欲望ではなく、こういう長い時間をかけた鬱屈のせいなのでしょう。

「数字だけは、嘘をつかない」

元子が武器にしたのは、腕力でもコネでもなく、情報でした。

銀行員として、彼女は見てしまいます。立派な顔をした人たちが、税金を逃れるために隠している「秘密の口座」の存在を。そして、そのすべてを黒い手帖に書き留めていく。

人は嘘をつくけれど、数字は嘘をつかない。——この感覚は、地味な仕事を長く続けてきた人間だからこそ持てたものだと思います。誰にも注目されない場所にいたからこそ、彼女は誰よりも正確に、人の裏側を見ていた。

皮肉なものです。彼女を無視し続けた世界が、そのまま彼女に武器を与えてしまったのですから。

それにしても、「情報を武器にする」という発想が、この時代の小説に出てくることに驚かされます。

腕力でも、色仕掛けでもなく、知識と記録で戦う。しかも、その武器は暴力より静かで、暴力より人を震え上がらせる。松本清張が描いた元子の戦い方は、今読んでも、まったく古びていません。

▼ 元子の生き方を歌にしたオリジナル曲は、こちらからご覧いただけます。

「黒革の手帖」には、何が書かれていたのか

タイトルになっているこの手帖、中身は架空名義預金の名簿です。

偽名で銀行に金を預けている人たちのリスト。本名、偽名、金額。それだけです。

ドラマだと「悪事の記録」のように見えますが、原作はもっと乾いています。ただの数字と名前の一覧。

でも、だからこそ強い。

暴力でも、色仕掛けでもありません。紙に書かれた数字です。それを見せられただけで、大の男が黙る。

黒い革の手帖に万年筆で書き込む女性の手元と、窓の外の銀座のネオン——『黒革の手帖』
暴力ではなく、数字で人を黙らせる

そしてこの武器は、彼女が「どうでもいい事務員」として扱われていたからこそ手に入ったものでした。誰も彼女を警戒していなかった。だから全部見えていた。

この皮肉を書けるのが、松本清張です。

彼女が欲しかったのは、お金だったのか

大金を手にした元子は、銀座に自分のクラブを持ちます。

ここで、わたしがずっと考えているのは、「彼女が本当に欲しかったものは何だったのか」ということです。

お金だった、と考えるのがいちばん単純な読み方でしょう。でも、それにしては、彼女の行動には妙な必死さがあります。金額を増やすことより、男たちが自分の前で顔色を変える瞬間のほうを、彼女は求めているように見えるのです。

自分を「ただの女」としか見なかった人たちが、いま自分にすがっている。かつて素通りされた自分が、今この場を支配している。——その実感こそが、彼女の生きる糧だったのではないでしょうか。

だとすれば、彼女が欲しかったのはお金ではなく、「存在を認められること」だったのかもしれません。それに気づいたとき、この物語が急に切なく見えてきました。

銀座という舞台の選び方も、絶妙だと思います。

あそこは、地位も財産もある男たちが、財布を開いて自尊心を満たしにくる場所です。つまり、元子がかつて素通りされた「男社会」が、いちばん濃縮された形で存在している。その中心に自分の店を構えるというのは、彼女にとって、ある種の復讐だったのかもしれません。

もっとも、その世界の男たちも、みな一枚岩ではありません。彼女を利用しようとする者、出し抜こうとする者、逆に脅し返してくる者。誰もが自分の欲のために動いているから、味方も敵も、いつ入れ替わるか分からない。

この緊張感が最後まで続くので、ページをめくる手が止まらなくなります。人間の欲望を知り尽くした作家だからこそ書ける駆け引きだと思います。

ただ、その世界で生きるには、常に上を目指し続けるしかない。店を持てば次は大箱を、資金を得れば次はもっと大きな取引を。止まった瞬間に飲み込まれる世界で、彼女は走り続けることになります。

華やかであるほど、孤独になる

昭和の銀座のクラブのカウンターで、客に囲まれながら一人うつむく女性——『黒革の手帖』原口元子
人に囲まれているのに、誰も彼女を見ていない

銀座で成功していく元子ですが、その姿は、見れば見るほど孤独です。

誰も信じない。誰にも本音を見せない。それが彼女の戦い方でした。心を許した瞬間に足をすくわれる世界にいるのだから、当然と言えば当然です。

でも、その結果として彼女が手に入れたのは、豪華なドレスと、誰もいない心の中でした。

わたしがこの物語を「痛快な成り上がり話」として読み切れないのは、この孤独が最後まで解消されないからです。勝ち続けるということは、一人であり続けるということ。彼女は、それを承知の上で進んでいくのです。

夜、店を閉めて一人になったとき、彼女は何を考えていたのだろう、とわたしは想像してしまいます。

達成感でしょうか。それとも虚しさでしょうか。たぶん、その両方だったのではないかと思います。手に入れたものは確かに大きい。でも、それを分かち合える相手は一人もいない。

人を信じないと決めた人は、裏切られない代わりに、誰にも救われなくなる。強さと引き換えに何を手放したのか——元子の孤独は、その代償の姿なのだと思います。

結末——元子は、最後にどうなるのか

ここから結末に触れます。

結論から書きます。元子は、全部失います。

前半であれだけ鮮やかに人を出し抜いていた彼女が、後半では逆に出し抜かれていきます。しかも一人にではありません。騙してきた相手たちが、それぞれの思惑で、彼女を外側から囲んでいく。

元子は気づきません。気づいたときには、もう動けない。

手に入れた店も、金も、地位も、消えます。唯一心を許した相手にも裏切られ、その人との間にできた子も失います。

そして最後の場面。

病院のベッドに横たわる元子を、これまで彼女が騙してきた人たちが取り囲んでいます。

そこで小説は終わります。

閉店後、椅子が上げられた誰もいないクラブで一人座る女性と、夜明けの東京——『黒革の手帖』
全部、手に入れたはずだった
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元子がそのあとどうなったのか、書かれていません。殺されたのか、生き延びたのか、何をされるのか。読者には分かりません。

この終わり方が、恐ろしいんです。

普通の犯罪小説なら、逮捕されるか、死ぬか、逃げ切るか、どれかで決着がつきます。でも松本清張は、決着をつけませんでした。

ベッドに寝ている女を、黙って見下ろしている人たちがいる。その絵だけ置いて、筆を止めている。

私はここに、世間というものの顔を見ました。

元子を無視していたのも世間です。彼女を持ち上げたのも世間です。そして最後に取り囲んでいるのも、同じ世間です。

何もしていないのに、いちばん怖い。

悪女、と呼んでしまっていいのか

元子はよく「悪女もの」の代表格として語られます。たしかに、やっていることは弁護のしようがありません。

ただ、この物語がよくできているのは、彼女が脅す相手もまた、まったく清廉ではないという点です。税金を逃れ、裏で汚いことをしてきた人たち。つまり、悪が悪を食い合う構図になっている。

だから読者は、「本当に悪いのは誰なのか」という気持ちのまま、最後まで連れて行かれます。単純な勧善懲悪では終わらせない。ここに、松本清張という作家の社会を見る目の鋭さがあると思います。

松本清張の作品には、社会の仕組みそのものへの厳しい視線が、いつも流れています。

個人の犯罪を描きながら、その背後にある構造——学歴や、性別や、階層による見えない壁——を必ず映し出す。『黒革の手帖』も、一人の女性の転落と栄光の物語であると同時に、そうした壁を告発する物語でもあるのだと思います。

だから、この作品は「悪女の物語」という枠に収まりません。読み終えたあとに残るのは、元子個人への評価ではなく、「彼女をそうさせたものは何だったのか」という問いのほうです。

ちなみに、この作品には社会派ミステリーとしての一面もあります。脱税、裏金、医療業界の内側——描かれる素材は、どれも当時の現実に根ざしたものです。

物語として面白く読ませながら、社会の暗部を確実に刻み込む。エンターテインメントと批評を両立させる手つきは、本当に見事だと思います。

「まじめに生きていれば報われる」と言えるか

元子の生き方に、わたしはずっと引っかかっているものがあります。

それは、「まじめに働いていれば、いつか報われる」という言葉を、彼女は信じられなかったということです。

信じられなかったのは、彼女がひねくれていたからではありません。実際に、まじめに働いていた頃の彼女を、世界は見なかった。だから彼女は、自分のやり方で世界と渡り合うことを選んだ。

この物語が書かれた時代は、今よりずっと、女性が正当に評価されにくい社会でした。どれだけ有能でも、女というだけで軽んじられる。元子の怒りの根っこには、その時代の壁が確かにあります。

もちろん、だから犯罪をしていいという話にはなりません。ただ、彼女を突き動かしたものが、単なる欲望ではなく「一人の人間としてまっとうに扱われたい」という願いだったとしたら。——この物語は、ぐっと胸に迫ってくるものになります。

元子の身のこなしや言葉遣いが完璧なのも、印象に残ります。上流の雰囲気をまとい、相手に信用させる話し方をする。でも、それは生まれ持ったものではなく、すべて後から自分で作り上げたものです。

わたしはそこに、彼女の必死さを見ます。「こうあれば、誰にも侵されない」という鎧を、一枚ずつ丁寧に重ねていったのでしょう。美しさも教養も、彼女にとっては装飾ではなく、生きるための道具でした。

そう考えると、彼女の「冷たさ」も、生まれつきの性格ではなく、後から身につけた技術のように思えてきます。

5度もドラマになった理由——山本陽子から武井咲まで

『黒革の手帖』は、これまで5回テレビドラマになっています。

放送年放送局主演
1982年テレビ朝日山本陽子
1984年TBS大谷直子
1996年テレビ朝日浅野ゆう子
2004年テレビ朝日米倉涼子
2017年テレビ朝日武井咲

40年近いあいだ、だいたい10年おきに作り直されています。これは相当な数です。

理由は、たぶん二つあります。

一つは、元子という役が、女優にとって大きいからです。強気なだけでも、哀しいだけでも成立しません。両方を同時に抱えていないと、元子になりません。演じた人がみな「難しいけれど演じがいがある」と言うのは、そのためでしょう。

もう一つは、話が古びないからです。

評価されない人がいて、金を持つ人がいて、弱みを握られた人が黙る。この構造は、1978年から一度も変わっていません。

ひとつ注意があります。ドラマ版と原作では、結末が違います。

特に2017年の武井咲版は、元子が最後に反撃する作りになっていて、観たあとの後味がまったく違います。ドラマで知った人が原作を読むと、たぶん驚きます。

どちらが良いという話ではありません。ただ、松本清張が書いたのは、反撃しないほうの話です。

なぜ、今も読み継がれるのか

『黒革の手帖』が何度もドラマ化され、時代を超えて読まれ続けているのは、元子という人物が、単純な悪役ではないからだと思います。

強さと弱さ、冷たさと哀しさ、支配と孤独。相反するものを一人の中に抱えているから、見る人によって、まったく違う顔を見せるのでしょう。ある人には痛快なヒロインに、ある人には哀れな女に、そしてある人には、自分の中の何かに。

演じてきた女優さんたちが、みな「難しいけれど演じがいがある」と語るのも、うなずける気がします。強気なだけでも、哀しいだけでも成立しない役。その両方を同時に抱えていないと、元子にはならないのでしょう。

日々の暮らしの中で、理不尽なことに黙って耐える瞬間は、誰にでもあります。だからこそ、それを全部はねのけて突き進む元子の姿に、少しだけうらやましさに似た感情を覚えてしまうのだと思います。

もちろん、それは「彼女のように生きたい」という意味ではありません。あんな生き方ができる人は、そう多くないでしょうし、真似をすれば必ず破滅します。

ただ、心のどこかで「言い返せたらいいのに」「見返せたらいいのに」と思ってしまう気持ちは、たぶん誰の中にもある。元子は、その気持ちを最後まで実行してしまった人なのだと思います。だから危険で、だから目が離せない。

あなたなら、どちらを選ぶだろう

この物語を読み終えると、ひとつの問いが残ります。

安全だけれど、誰にも顧みられない人生。危険だけれど、自分の意志で切り開く人生。——どちらを選ぶか、という問いです。

もちろん、元子のやり方は正解ではありません。彼女が選んだ道の先に、穏やかな幸福が待っているとは、とても思えない。

それでも、「自分の人生を、自分で生きたい」という彼女の願いそのものは、決して間違っていなかったと思うのです。方法が違っただけで、その願い自体は、多くの人の心の奥にも眠っているものではないでしょうか。

わたし自身は、元子のような強さを持っていません。たぶん、彼女のいた世界では三日ももたないでしょう。

それでも、この物語を読んでいると、少しだけ背筋が伸びる気がするのです。誰にも見られていないと感じる日でも、自分の価値まで他人に決めさせる必要はない。——そんなことを、あの黒い手帖は静かに教えてくれる気がします。

夜の銀座に響くヒールの音の向こうに、一人の女性の震えるほど強い意志を、音羽のオリジナル曲とあわせて感じていただけたら嬉しいです。

▼ 『黒革の手帖』の世界を描いたオリジナル曲(再掲)

松本清張は、社会の下のほうに置かれた人が這い上がろうとする話を、何度も書いています。

『砂の器』の和賀も、『ゼロの焦点』の登場人物たちもそうでした。

元子の場合は、金でそれをやろうとした人です。

手段は違っても、根っこは同じところにある気がします。

もう一冊の松本清張——『砂の器』の和賀英良も、自分を作り変えた人です

元子のことを考えていると、同じ松本清張の『砂の器』を思い出します。

こちらの主人公・和賀英良は、天才作曲家として成功した男です。でもその成功は、自分の生まれを完全に消すことの上に建っていました。

元子と和賀は、同じことをしています。

二人とも、与えられた場所を捨てて、自分で選んだ場所に立とうとした。そして二人とも、そのために他人を踏みました。

違うのは、消したかったものです。和賀が消したかったのは過去でした。元子が消したかったのは現在です。「誰にも見られていない自分」という、いま進行中の事実のほうを消したかった。

そしてもう一つ違うのは、結末の形です。和賀は過去に追いつかれました。元子は、自分が作った今に飲み込まれました。

松本清張は、この種類の人を何度も書いています。いまいる場所から動こうとして、壊れていく人の話を。

→ 『砂の器』和賀英良はなぜ恩人を殺したのか

松本清張作品の考察記事

音羽のブログでは、同じ作家の作品をほかにも書いています。

よかったら、あわせて読んでみてください。


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