『楢山節考(ならやまぶしこう)』おりんは本当に行きたかったのか、自分で歯を割った母の話

映画『楢山節考』おりんと辰平 物語の考察

映画『楢山節考(ならやまぶしこう)』の話をします。

さきに断っておきます。わたしが観たのは一九八三年の今村昌平(いまむら しょうへい)監督版です。原作の小説は読んでいません。

だからこの記事は、映画を観て考えたことです。

※性的な描写と、かなり厳しい場面があります。苦手な方はご注意ください。

※結末に触れます。

いちおう、映画の枠だけ。

一九八三年四月二十九日公開。今村プロダクションと東映。百三十一分です。

この年のカンヌ国際映画祭で、パルムドールを取りました。翌年の日本アカデミー賞(第七回)でも、最優秀作品賞・最優秀主演男優賞・最優秀録音賞を取っています。

監督と脚本は今村昌平。原作は深沢七郎(ふかざわ しちろう)の『楢山節考』ですが、そこに同じ作者の『東北の神武たち(とうほくのじんむたち)』という別の小説が混ぜてあります。この話は、あとで書きます。

どういう話か

信州の、山の中の村です。

食べるものが足りません。だから村には決まりがあります。

七十になったら、楢山へ行く。

息子が背板(せいた)に乗せて、山まで運ぶ。そこに置いて、一人で帰ってくる。

おりんは、来年がその年です。

この映画は、その一年を追います。

登場人物と読み方

  • おりん(坂本スミ子/さかもと すみこ)——来年、楢山へ行くことになっている母
  • 辰平(たつへい・緒形拳/おがた けん)——おりんの長男。四十五歳
  • 利助(りすけ・左とん平/ひだり とんぺい)——辰平の弟。村では「くされ」と呼ばれる
  • 玉やん(たまやん・あき竹城/あき たけじょう)——向こうの村から来た、辰平の後妻
  • けさ吉(けさきち・倉崎青児)——辰平の長男。おりんの孫
  • 松やん(まつやん・高田順子)——けさ吉と一緒になる娘。雨屋の子
  • おえい(倍賞美津子/ばいしょう みつこ)——村の男たちと関わる女
  • 又やん(またやん・辰巳柳太郎/たつみ りゅうたろう)——七十を過ぎても、山へ行きたがらない老人
  • 照やん(てるやん・殿山泰司/とのやま たいじ)——楢山まいりの作法を教える村の役

村にある三つの掟

この村には、決まりが三つあります。

  • 長男しか、所帯を持てない
  • 食べ物を盗むのは、重い罪
  • 七十になったら、楢山へ行く

三つとも、理由はひとつです。食べ物が足りない。

人が増えたら、全員が死ぬ。だから増やさない。減らす。

残酷に見えますが、よくできています。わたしは、そこが怖いと思いました。

おりんは、嫌がらない

ふつう、こういう話の主役は抵抗します。

おりんはしません。

それどころか、来年を待っているように見えます。

石臼に歯を打ちつける

おりんには、悩みがあります。

歯が丈夫なのです。

七十近いのに、まだそろっている。だから物置の石臼(いしうす)に口を打ちつけて、自分で割ります。

観ていて、声が出ました。

痛そうだからではありません。そこまでしないといけない理由があることが、怖かったからです。

石臼に口を打ちつけて歯を割るおりん
まだ生きられる、という証拠を、自分で壊す

なぜ、歯が恥になるのか

歯が丈夫だと、よく食べられます。

食べ物が足りない村で、よく食べられる口は、迷惑です。

わたしたちの感覚だと逆です。健康なのは、いいことです。

この村では違います。長生きできる体のほうが、罪に近いものとして扱われる。

おりんが割ったのは、歯ではなくて、まだ生きられるという証拠だったんだと思います。

演じた人も、歯をどうにかしていた

おりんを演じたのは、坂本スミ子さんです。

撮影のとき、四十代半ばでした。七十の老婆の役です。

この人は、自分の前歯を短く削って、この役に入りました。歯が抜けているように見せるためです。

知ったとき、少し声が出ました。

おりんは、石臼に口を打ちつけて歯を割ります。それを演じる人が、本当に自分の歯を削っている。

絵の中の話が、画面の外にはみ出しています。

※資料によって「削った」と「抜いた」で書き方が分かれています。わたしが確かめられたのは「前歯を短く削った」のほうです。

それと、おりん役はもともと別の人に決まっていたそうです。撮影が始まってすぐに降りて、坂本さんに代わりました。

坂本スミ子さんは、二〇二一年に亡くなっています。

この役のことを知ってしまうと、あの歯の場面を、もう軽く見られません。

辰平という息子

辰平は四十五歳。おりんの長男です。

先の妻を亡くしていて、子どもがいます。

この人は、母を山へ運ぶ役です。

やりたいわけがありません。でも、やらないと村で生きていけない。

辰平は、母を失いたくない気持ちを、うまく言葉にできないように見えます。

玉やんを迎えさせる

おりんは、自分がいなくなる前に、家の段取りをつけようとします。

まず、辰平の後妻です。

向こうの村から玉やんが来ます。おりんは、この人を気に入ります。

ここが、この映画を観るときの鍵だと思いました。

おりんは、死ぬ日が決まっている人です。それなのに、残る人の心配ばかりしています。

向こうの村から後妻の玉やんが来る場面
自分がいなくなったあとの家を、先に整えていく

利助のこと

辰平には弟がいます。利助です。

村では「くされ」と呼ばれています。臭いからです。

この村では、長男しか所帯を持てません。だから利助は、女を知らないまま年を取りました。

見ていて楽な人ではありません。犬に手を出す場面もあります。

ただ、笑えるかというと、笑えません。

生まれた順番だけで、妻を迎えて所帯を持つ道を閉ざされた人です。

おえいが引き受けたもの

おりんは、次男の利助のことも気にかけます。

村には、おえいという女の人がいます。

おえいは、父親の言いつけで、村の男たちと一晩ずつ過ごすことになっています。

ただ、利助だけは相手にされません。見かねたおりんは、村の年寄りの女の人に、身替り(みがわり)を頼みます。

ここの描き方に、容赦はありません。

でもわたしは、おりんがここまでするのか、と思いました。自分が山へ行くまでに、次男のことまで片づけようとしている。

雨屋の一家

この映画でいちばんきつい場面です。

松やんの実家、雨屋(あめや)が、食べ物を盗みます。

雨屋の父親が、よその家から豆かす(まめかす)を盗んで捕まります。雨屋が楢山に謝るのは、これで二代目です。泥棒の血筋だ、ということになります。

このとき、松やんは雨屋にいました。

少し前に、おりんが残り少ない芋を持たせて、泊まってきていいと言って、実家へ帰していたからです。

村人が総出で家に入り、家財を壊し、見つけた食べ物を分けます。

そして一家は、生き埋めにされます。松やんも、一緒でした。

雨屋の側に、言い分を聞いてもらえる余地は見えませんでした。

掟を破ったら、村が自分で始末する。それだけです。

なぜ、盗みがそこまで重いのか

人を殺したわけではありません。

でもこの村では、盗みは殺すのと同じです。

食べ物の量が決まっているからです。誰かが余計に食べたら、誰かが飢えます。

村では、盗みが、誰かの命を奪う行為のように扱われています。

だから掟が重いのだと思います。

おりんは、どこまで分かっていたのか

ここで、どうしても引っかかることがあります。

松やんを実家へ帰したのは、おりんです。

松やんは身ごもっていました。食べる口がひとつ増えます。おりんの家の食べ物は、もう残り少ない。

そこへ、芋を持たせて帰しました。

偶然だったのかもしれません。

でも、村のことをいちばんよく知っているのは、おりんです。雨屋が盗みをする家だということも、二代目は許されないということも、知らなかったとは思えません。

映画は、おりんの気持ちを説明しません。

わたしは、ここでおりんの見え方が変わりました。

家の段取りをつける人、と書いてきましたが、段取りをつけるというのは、誰かを外すことでもあります。

立派な人、では片づかないのは、こういうところです。

又やんは、行きたくない

おりんの近くに、又やんという老人がいます。

七十を過ぎていますが、山へ行きたがりません。

手癖が悪く、息子に縄で縛られます。

怖いのです。当たり前だと思います。

わたしは、この人のほうが人間らしいと感じました。

おりんと又やん、何が違ったのか

同じ村に、受け入れた人と、最後まで嫌がった人がいます。

この二人を並べるために、又やんがいるんだと思います。

ふつうに見れば、おりんは立派で、又やんは見苦しい。

でも、本当にそうでしょうか。

おりんには、やることがありました。辰平の後妻、利助のこと、孫のこと。

又やんには、たぶん何もなかった。

やることがある人は、終わりを受け入れやすい。それだけの違いだったとしたら、おりんの立派さは、何だったんでしょう。

楢山まいりの日

日が近づくと、村の役の人が来て、作法を教えます。

出発は夜。誰にも見られてはいけない。

背板に乗せて、山へ。

この場面の空気が、ずっと残っています。

儀式になっているのです。悲しむ形が、先に用意されている。

背板に母を乗せて雪の山を登る息子
背板に乗せて、雪の山へ。口をきいてはいけない

口をきかない、振り返らない

掟は、まだあります。

  • 山に入ったら、年寄りは声を出してはいけない
  • 置いて帰るとき、振り返ってはいけない

よくできた決まりだと思います。

声を聞いたら、連れて帰りたくなる。顔を見たら、置いていけなくなる。

この掟は、捨てられる側のためではありません。捨てる側が、最後までやり遂げるための決まりです。

結末——おりんを置いて、辰平は何を見たのか

ここから結末に触れます。未見の方は、ここで止めてください。

山の上は、白骨とカラスでした。

先に来た人たちが、そのまま残っています。

おりんは、迷いません。

筵を敷いて、座って、手で合図します。帰れ、と。

声は出しません。掟だからです。

辰平は、下ります。

途中で、雪が降りはじめました。

楢山節に、こういう文句があります。雪が降れば運がいい。山へ行く日に雪が降るのは、めでたいことだとされている。

辰平は、引き返しました。

「おっかあ、雪が降ってきたよ」

口をきいてはいけない、という掟を、自分から破ります。

おりんは、答えません。

手で、追い払うだけです。

ここが、いちばんきつかったところです。

息子は最後に一度だけ、人間に戻ります。おっかあ、と呼んでしまう。

でも母のほうは、戻りません。最後まで掟の側にいます。

雪のなかで、手を合わせて座っている。

辰平が泣けるのは、おりんが泣かないからです。

山で見たものが、もうひとつあります。

又やんです。

縄で縛られたまま山へ運ばれて、谷へ落とされます。

辰平は、それを見てしまう。

おりんは座って待ち、又やんは落とされる。

同じ山で、終わり方がこんなに違います。

どちらも、七十を過ぎただけです。それ以外、何も違わない。

村はこれを「楢山まいり」と呼びます。きれいな言葉です。

でも又やんのほうを見てしまうと、その言葉が何を隠していたのかが分かります。

おりんは、本当に行きたかったのか

ここが、この記事でいちばん書きたかったところです。

おりんは一度も、嫌だと言いません。

でも、歯を割りました。

行きたい人は、そこまでするでしょうか。

わたしには、逆に見えました。

そこまでしないと行けなかった。だから、自分で自分に理由を作った。歯がそろっているのは恥だ、わたしはもう村のお荷物だ、と。

覚悟というより、言い聞かせに近いんじゃないか。

答えは出しません。映画も、出していません。


▼ この問いのまま、おりんの側から曲にしました


「覚悟」で片づけたくない

おりんを褒める見方があります。立派だ、潔い、と。

その言い方は、わたしは少し苦手です。

褒めた瞬間に、聞かなくてよくなるからです。

立派な人、で終わらせると、その人が何を飲み込んだのかを考えなくて済みます。

おりんは黙っていたのであって、何も思わなかったわけではないはずです。

この村を、野蛮だと言えるか

観終わって最初に思ったのは、ひどい村だ、でした。

でも、しばらくして思い直しました。

この村は、全員が死なないための形を作っただけです。

閉じた村が人に何をさせるかという話は、『八つ墓村』でも書きました。

わたしたちの側に、同じものがないとは言えません。

山へ連れていかないだけで、置いていく場所はあります。

形が違うだけじゃないか。そう思ったとき、笑えなくなりました。

姨捨は、実際にあったのか

この映画を観ると、気になると思います。姨捨(おばすて)は、本当にあったのか、と。

調べた範囲で言うと、はっきりしたことは分かっていません。

年寄りを山へ捨てるという決まりがあったことを示す公的な記録は、見つかっていません。ただし、記録がないことは、どこにもなかったという証明にはなりません。

一方で、言い伝えや「姥捨」のつく地名は、各地に残っています。

話そのものは、かなり古いです。難題を出される形の説話は、インドの『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』などにさかのぼるとされます。『枕草子(まくらのそうし)』にも、蟻通明神(ありどおしみょうじん)の由来として語られる形で出てきます。

長野県の冠着山(かむりきやま)は、姨捨山(おばすてやま)とも呼ばれます。古くから伝説と結びつけて語られてきた山です。ただし、伝説の舞台がどこかについては、諸説あります。

つまり、こういうことだと思います。

映画のような掟が実際にあったのかは、伝説があるというだけでは決められません。

それでも、こういう話が長いあいだ語り継がれてきたことに、わたしは怖さを感じました。ありえない話だったら、ここまで残らなかったはずなので。

一九八三年の映画が、原作に足したもの

ここは、はっきり書いておきます。

この映画は、二つの小説をもとにしています。

今村版は、深沢七郎の『楢山節考』に加えて、同じ作者の『東北の神武たち』も取り入れています。

『東北の神武たち』は、所帯(しょたい)を持てない次男三男の話です。

利助も、おえいも、村の男たちの性も、そこから来ています。

だから、この映画を観て原作そのものを語ると、ずれます。わたしは原作を読んでいないので、これ以上は書きません。

タイトル『楢山節考』の意味

「節」は、歌の節のことだと思います。

「考」は、考えること。論じること。

楢山のことを歌った節について、考える。そういう題だと読みました。

事実そのものではなく、語り継がれた形のほうに目を向けている題です。

これは、さっきの「本当にあったのか」とつながります。

大事なのは、あったかどうかではなくて、人がそれを歌にして残したこと。そう言われている気がします。

カンヌで評価された理由を、音羽なりに考える

わたしの勝手な読みです。

この映画は、村を裁きません。

ひどい、とも、仕方ない、とも言わない。ただ、そこにある形を撮っています。

人の性も、死も、食べることも、同じ重さで並んでいます。

そこが、日本の昔の話というより、人間の話として受け取られたんじゃないかと思います。

今村昌平は、二度取っている

日本の映画でカンヌの最高賞を取ったのは、五本だけです。

  • 『地獄門』一九五四年・衣笠貞之助(※当時の呼び名はグランプリ)
  • 『影武者』一九八〇年・黒澤明
  • 『楢山節考』一九八三年・今村昌平
  • 『うなぎ』一九九七年・今村昌平
  • 『万引き家族』二〇一八年・是枝裕和

気づきますか。今村昌平の名前が、二回あります。

日本人でこれをやったのは、この人だけです。

『うなぎ』は『楢山節考』の十四年後。妻を殺して刑務所に入った男が、出てきてうなぎを飼う話です。

まるで違う題材なのに、見ているところは同じだと思います。

人が、生きるために何をするか。きれいにまとめないこと。

『楢山節考』が評価されたのは、たまたまではなかったということだと思います。

※『うなぎ』は『桜桃の味』との同時受賞です。

囲炉裏に向かい合う老いた母と息子
人の性も、死も、食べることも、同じ重さで並んでいる

この映画が合う人、合わない人

合うと思う人。

  • きれいにまとめない話が好きな人
  • 答えを出されたくない人
  • 人間の嫌なところも見たい人

合わないと思う人。

  • 動物や性の描写が苦手な人
  • 救いのある終わり方を求めている人
  • 原作に忠実な映像化を期待している人

三つ目は、本当に注意してください。二つの小説をもとにした映画です。

もし自分がおりんだったら

考えてみました。

歯は、たぶん割れません。

でも、「迷惑をかけたくない」とは言うと思います。

あれは、同じことなんじゃないでしょうか。

自分からいなくなる理由を、自分で作っている。

そう思ったら、おりんが遠い人ではなくなりました。

曲に込めたこと

おりんの視点で書きました。

一度も「嫌だ」と言わない歌にしています。最後まで言いません。

言わないことで、逆に聞こえるものがあると思ったからです。


▼ 『楢山節考』おりんの側から作ったオリジナル曲


おわりに

観終わってから、ずっと歯のことを考えています。

自分で、自分の歯を割る。

歯を折れと、直接命じられたわけではありません。

それでも、おりんは自分で折りました。

いちばん怖いのは、そこだと思いました。

決まりが長く続くと、人は自分から従うようになる。嫌だと思う働きのほうが、先に消える。

おりんは立派だった、で終わらせたくないのは、そのためです。

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