川端康成『たんぽぽ』見えなくなるほど愛していた——音羽が考えた、置いて帰った二人の話

物語の考察

川端康成が、最後まで書けなかった小説があります。『たんぽぽ』です。

稲子という女性が、川沿いの病院に入れられる。連れてきたのは母親と、恋人の久野。二人は稲子を置いて帰る。小説のほとんどは、その帰り道の会話です。

この記事は、置いて帰った側——久野と母の目線で書きます。

『たんぽぽ』はどういう小説か——川端康成が最後まで書けなかった話

一九六四年に連載が始まって、途中で止まりました。川端康成は一九七二年に亡くなっています。だからこの小説には終わりがありません。

舞台は生田川という川のそばの病院です。精神を病んだ人が入るところ。稲子はそこへ入れられます。

主人公は稲子のはずです。でも稲子はほとんど出てきません。読んでいるあいだ、彼女はずっと見えないところにいる。

それがこの小説の形そのものになっています。

ノーベル賞を取ったあとの川端康成が書いていたものです。『雪国』や『伊豆の踊子』を思って読むと、たぶん面食らいます。

美しい風景も出てきません。出てくるのは病院の門と、川沿いの道と、たんぽぽだけ。

あとはずっと、二人がしゃべっています。

人体欠視症——稲子が見えなくなるもの

稲子の病気には名前があります。人体欠視症(じんたいけっししょう)。

実在しません。川端康成が作った言葉です。

症状はこうです。愛している人の体が、突然見えなくなる。

全部が消えるわけではありません。顔は見える。声も聞こえる。でも体だけが、そこだけ空白になる。

稲子の場合、消えるのは久野の体です。いちばん好きな人だけが見えない。

初めて読んだとき、私はここで一度止まりました。うますぎる、と思って。

好きになればなるほど、相手が分からなくなる。分かっていたはずのものが見えなくなる。そういうことって、あると思うんです。

それに病名をつけてしまった人がいた。

ちなみに、この病名は作中でちゃんと説明されません。医者が出てきて解説してくれる、みたいな場面はない。

母と久野が、それぞれの理解で話すだけです。だから読んでいるこちらも、輪郭がつかめないまま進みます。

それが不親切かというと、そうでもない。稲子に起きていることは、本人以外には分からない。分からないまま書くのが、正しいんだと思います。

暗い背景から飛び立つたんぽぽの綿毛
いちばん見たいものだけが、そこから離れていく

病院に置いて、二人で帰る

物語は、稲子を預けた直後から始まります。

母と久野は門のところで振り返る。もう稲子はいません。

そこから二人は、川沿いの道を歩いて帰ります。

気まずいです。ものすごく。

娘を閉じ込めた母親と、恋人を閉じ込められた男。やったことは同じなのに、立場が違う。

二人とも、自分は正しかったと思いたい。でも思いきれていない。その中途半端さが、ずっと続きます。

道は川に沿っています。水の音がずっとしている。

二人はその音の中で、稲子のことを話し続けます。褒めたり、責めたり、言い訳したり。

人を施設に預けた帰り道って、たぶんこうなるんだと思います。黙っていられない。黙ると、自分がやったことを考えてしまうから。

帰り道は長いです。ページにして、ほとんどがこの道中になります。

普通の小説なら、ここは移動しているだけの場面です。でもこの小説では、ここが本編になっている。

久野は、まだ結婚すると言う

久野は、稲子が退院したら結婚すると言います。

母は聞き流しません。はっきり反対する。

私は最初、久野の側に立ちたくなりました。好きな人が病気になったくらいで離れるのか、と。

でも読み進めると、だんだん分からなくなってきます。

久野が見ているのは、稲子なのか。それとも「自分だけが見えなくなる存在である自分」なのか。

稲子の病気は、久野を特別扱いしています。世界でただひとり、久野だけが消える。

これ、ある意味では最高の愛の証明です。

久野はその証明に酔っていないか。私はそこが引っかかりました。

久野という男について、もう少し

久野のことを、もう少し書きます。

この人、悪い人ではありません。むしろ誠実なほうだと思います。

稲子を見捨てない。母に対しても、逃げずに自分の考えを言う。

ただ、引っかかるところがあります。

久野は、稲子の病気が治ってほしい、とはあまり強く言いません。

結婚の話はする。でも病気そのものを恐れている感じがしない。

もし治ったら、稲子には久野の体が見えるようになります。

そうしたら、久野はただの男に戻る。世界でひとりだけ消える男ではなくなる。

久野はそれを望んでいるのか。私にはそこが読み取れませんでした。

読み取れないように書いてあるんだと思います。

もし稲子の病気が、久野を縛る鎖でもあるとしたら。

見えないからこそ、離れられない。分かってしまったら、終わるかもしれない。

そこまで考えて、私は少し背筋が寒くなりました。

母が反対する理由

母のほうは、もっと生々しいです。

娘を病院に入れたのは自分です。それを正しいと言い張らないと、自分が保てない。

だから母は、稲子は病気だ、と何度も繰り返します。

繰り返す人は、たいてい自信がありません。

私は母を責める気になれませんでした。

娘が「あなたの体が見えない」と言い出したとき、親に何ができるんでしょう。病院に入れる以外の答えを、私も思いつきません。

母は、久野のことを嫌っているわけでもありません。

むしろ、娘を好きでいてくれることには感謝している。ただ、その好き方が信用できない。

この距離感が、読んでいてやけにリアルでした。

嫌いなら話は簡単です。嫌いじゃないのに任せられない、というのが一番しんどい。

母は、父の死をどう見ていたか

稲子の父は軍人でした。馬から落ちて死んでいます。

稲子はそれを見ています。

母は、その日から娘がおかしくなったと考えている。

ただ、この説明は少し都合がよすぎる気もします。

原因がはっきりしていれば、自分のせいではなくなる。落馬のせいにできる。

人は苦しいとき、原因をひとつに決めたがります。そのほうが楽だから。

母がそれをやっているように見えて、私は少し怖くなりました。

もうひとつ言うと、母は稲子の父のことを、あまり良くは言いません。

軍人で、家ではどうだったのか。そこは細かく書かれない。

でも母の言い方の端々に、この人も大変だったんだろうな、という感じが残ります。

稲子の病気の原因を父に置きたがるのは、たぶんそれもあるんだと思います。

稲子は、本当に病気だったのか

ずっと考えていることがあります。

稲子は、本当に病気だったんでしょうか。

人体欠視症は実在しません。だから医学の話にはなりません。

そうすると、これは比喩です。何かの言い換え。

愛しすぎて相手が分からなくなる、という状態に名前をつけただけ。

だとすると、病気なのは稲子だけじゃないことになります。

母も久野も、同じ症状を持っています。二人とも、目の前の相手が見えていない。

母は稲子を「病気の娘」としか見ていない。久野は稲子を「自分を特別にしてくれる人」としか見ていない。

見えていないのは、どっちなんでしょう。

病院に入れられたのは稲子ひとりでした。でも読んでいると、そこが逆じゃないかと思えてきます。

この小説に、はっきりした悪人は出てきません。

それなのに、読んでいると息苦しい。

悪意がなくても人は人を閉じ込められる、というのが、たぶん一番怖いところです。

鐘の音

病院には鐘があります。患者が打つ鐘です。

帰り道の二人の耳に、その音が届きます。

誰が打っているのかは分かりません。稲子かもしれないし、違うかもしれない。

分からないまま、鐘だけが鳴る。

この小説でいちばん怖いのは、たぶんここです。

音は聞こえるのに、姿が見えない。

稲子の病気と、まったく同じ形をしています。

鐘の音は、話の途中で何度も出てきます。

二人が言い争っているときも、黙ったときも、遠くで鳴っている。

稲子がそこにいることだけは、音で分かる。でも姿は見えない。

見えないものの存在を、音だけが証明している。そういう場面です。

鐘というのは、もともと人に知らせるための道具です。

でもこの小説の鐘は、何も知らせません。誰が打っているかも分からない。

ただ鳴っているだけの鐘。それを二人が黙って聞いている。

たんぽぽのこと

タイトルのたんぽぽは、生田川の土手に咲いています。

話の中で特別な役目があるわけではありません。ただ咲いているだけ。

でも、だからいいんだと思います。

人が閉じ込められても、親子が言い争っても、たんぽぽは関係なく咲く。

世界はこちらの都合で止まってくれない。あの花は、そのことを静かに言っています。

たんぽぽは、誰も見ていません。

母も久野も、話に夢中で足元なんて見ていない。稲子は病院の中です。

見ている人がいないのに、花の名前がタイトルになっている。

そこが、私はずっと引っかかっています。

土手のたんぽぽは、たぶん毎年同じように咲いています。

去年も、その前も。稲子が元気だった頃も。

変わったのは人のほうだけです。

たんぽぽの咲く草むらで空を見上げる猫
誰が閉じ込められても、土手のたんぽぽは関係なく咲く

愛しているのに見えない、ということ

この小説がずっと言っているのは、たぶんひとつです。

近づきすぎると、見えなくなる。

稲子は久野を愛している。愛しているから、久野の体が消える。

母は稲子を愛している。愛しているから、稲子を閉じ込める。

久野は稲子を愛している。愛しているから、稲子の病気を手放したくない。

全員が愛していて、全員がずれている。

悪い人がひとりもいないのに、こうなっている。そこが一番つらいです。

この三人は、たぶん誰も相手を分かろうとしていません。

分かろうとする代わりに、自分の中の相手を大事にしている。

稲子の中の久野、久野の中の稲子、母の中の娘。どれも本物とは少しずれている。

そのずれのことを、川端康成は病気と呼んだんじゃないでしょうか。

もし自分が母の立場だったら

読みながら、何度も考えました。自分が母だったら、どうするか。

娘が突然、恋人の体が見えないと言い出す。医者に相談しても名前のつく病気ではない。

たぶん私も、入院させると思います。

怖いからです。娘が怖いんじゃなくて、自分が耐えられない。

毎日それを見ていたら、こっちがおかしくなる。

母が娘を預けたのは、娘のためというより、自分が壊れないためだったんじゃないか。

そして母は、それを自分でも分かっている。分かっているから、正しさを繰り返し口に出す。

この小説の母は、悪い母ではありません。ただ、限界が来ただけの人です。

限界が来たとき、人は誰かを遠ざける。そのことを責められる人が、どれだけいるんでしょう。

川端康成が、最後に書いていたもの

『たんぽぽ』の前に、川端康成は『眠れる美女』と『片腕』を書いています。

眠っている女の横で一晩過ごす話と、女の片腕を借りて帰る話です。

並べてみると、だんだん人が欠けていっているのが分かります。

眠れる美女では、相手は目を覚まさない。片腕では、もう腕だけ。

そして『たんぽぽ』では、体が見えなくなる。

最後のほうの川端康成は、人をまるごと書くことから離れていったように見えます。

理由は分かりません。ただ、そういう流れの先に『たんぽぽ』がある。

そう思って読むと、この小説は急に出てきた変な話ではなくて、行き着いた場所に見えてきます。

『眠れる美女』も『片腕』も、気味の悪い話として語られがちです。

でも私は、あれは寂しい話だと思っています。

相手が起きていたら、話さないといけない。腕だけなら、何も言われない。

人を丸ごと引き受ける体力がなくなった人の書き方に見えるんです。

未完のまま終わったこと

稲子が退院したのか。久野と結婚したのか。母がどうなったのか。何も分かりません。

最初は、もったいないと思いました。

でもいまは、これでよかったのかもしれないと思っています。

人体欠視症に治りはあるんでしょうか。愛が深まれば、また見えなくなるだけじゃないのか。

終わらせようとすると、たぶん嘘になる。

書けなかったんじゃなくて、書けるものがなかった。私はそう思っています。

もうひとつ書いておきたいことがあります。

未完だと知らずに読み始めると、最後のページでびっくりします。話の途中でいきなり終わるので。

私は一度、本が落丁しているのかと思いました。

でも落丁ではありません。そこで止まったまま、五十年以上そうなっている。

この小説を読むというのは、その止まった場所に立ち会うということでもあります。

夕日を背に綿毛が飛んでいくたんぽぽ
終わらないまま、日が暮れていく

曲に込めたこと

今回の曲は、帰り道の二人の側から作りました。

稲子は出てきません。姿が見えないまま、鐘の音だけがする。そういう曲です。

母のパートと久野のパートを分けて、途中で重ねました。同じ道を歩いているのに、見ているものが違うので。

最後は解決させていません。解決しないのが、この話だと思ったから。

歌詞には、鐘という言葉を一度も入れていません。

音で出したかったので。言葉で「鐘が鳴る」と書いてしまうと、それはもう見えているものになる。

見えないまま届くもの、というのがこの小説の芯だと思ったので、そこは言葉にしませんでした。

おわりに

『たんぽぽ』は読みやすい小説ではありません。会話ばかりで、話もほとんど進まない。

でも読み終わったあと、しばらく残ります。

好きな人の顔を思い出そうとして、うまく出てこないときがありませんか。毎日会っているのに。

あれ、たぶん人体欠視症の入り口です。

川端康成は病名をつけただけで、症状のほうは、わりと誰にでもあるんじゃないかと思っています。

もし読むなら、講談社文芸文庫で手に入ります。薄い本です。二時間もあれば読み終わります。

ただ、読み終わったあとのほうが長い。私はそうでした。

川端康成の代表作から入った人ほど、この小説には戸惑うと思います。でも戸惑ったまま、覚えていると思います。

日本の近代文学の考察記事

音羽のブログでは、ほかにもこういう作品の考察を書いています。どれも答えの出ない話ばかりです。

  • 『羅生門』(芥川龍之介)——下人は、なぜ一言で悪に変わったのか
  • 『藪の中』(芥川龍之介)——三人が三つの違うことを言う
  • 『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)——カムパネルラは、どこで降りたのか
  • 『沈黙』(遠藤周作)——踏み絵を踏んだ人は、弱かったのか
  • 『蔵の中』(横溝正史)——守るのと閉じ込めるのは似ている
  • 『八つ墓村』(横溝正史)——田治見要蔵を怪物にしたのは誰か
  • 『ゼロの焦点』(松本清張)——室田佐知子はなぜ過去を隠したのか
  • 『砂の器』(松本清張)——和賀英良はなぜ恩人を殺したのか

音羽(Otowa)について

小説や映画を読んで、頭から離れなくなったものを曲にしています。できた曲はYouTubeに置いています。

▶ 物語考察MUSIC|音羽(YouTubeチャンネル)

タイトルとURLをコピーしました