芥川龍之介『羅生門』悪と呼ぶなら、呼べばいい——音羽が考えた、善人が消えた雨の夜

物語の考察

善人が悪人になるまで、どれくらいかかると思いますか。

この小説では、たった一言です。

芥川龍之介の『羅生門』。一九一五年、芥川が二十三歳のときの作品です。

『羅生門(らしょうもん)』はどういう話か

平安時代の京都。災害と飢饉が続いて、都が荒れ果てています。

羅生門というのは、都の入口にあった大きな門です。いまは修理する人もいなくて、引き取り手のない死体が捨てられる場所になっている。

そこに、若い男がひとり立っています。

主人に暇を出されて、行き場がない。雨が止むのを待ちながら、明日からどうするかを考えています。

考えていることは、ひとつです。

正直に生きて飢え死にするか、盗人になって生き延びるか。

この二択の前で、彼は動けなくなっています。

文庫で十ページほどの短編です。読むだけなら二十分もかかりません。

でも、この二十分がやけに重い。

芥川はこのとき、まだ大学生でした。二十三歳で、人間がどこで折れるかを書いている。

登場人物の読み方

名前というより役職名なので、先に整理しておきます。

  • 下人(げにん)——主人公の若い男。使用人という意味。名前は最後まで出てきません
  • 老婆(ろうば)——門の上で死体の髪を抜いていた女
  • 羅生門(らしょうもん)——平安京の南の正門。荒れ果てて死体置き場になっている
  • 引剥(ひはぎ)——人の着ているものを剥ぎ取る強盗のこと

下人に名前がないのは、たぶんわざとです。誰でもよかった、ということだと思います。

ちなみに羅生門は、実在した門です。平安京の朱雀大路のいちばん南にありました。

もともとは都の玄関にあたる立派な門です。それが数百年で、誰も近寄らない場所になった。

この小説の舞台は、栄えていたものが朽ちたあとの場所です。人が壊れる話をするのに、これ以上ない設定だと思います。

にきびのこと

この小説には、妙に細かい描写がひとつあります。

下人が、右の頬にできた大きなにきびを気にしている。

門の下で悩んでいるときも、指でさわっている。

初めて読んだとき、ここで笑ってしまいました。都が滅びかけていて、自分は明日飢えるかもしれない。それなのに、にきびを気にしている。

でも、これがあるから下人は人間に見えます。

大きな決断の前でも、人は小さいことを気にする。

芥川はこのにきびを、最後のほうでもう一度使います。そこがまた、うまいんです。

この頬のにきびは、下人がまだ若いことのしるしでもあります。

苦労を知り尽くした大人ではない。ただ職を失って、途方に暮れているだけの若者です。

だから読んでいて、突き放しきれません。

楼の上で見たもの

下人は、門の上で一晩過ごそうと思って梯子を上ります。

そこには死体がいくつも転がっていました。

そして、その中にひとり、生きている人間がいた。

老婆です。松の木片に火をともして、女の死体の髪を一本ずつ抜いている。

下人はぞっとします。そして、怒りが湧いてきます。

死体から髪を抜く。そんなことをする人間が許せない。

彼は老婆に飛びかかって、腕をねじ上げます。

老婆は小さくて、痩せていて、白髪です。

下人はあっさり組み伏せます。

弱い相手だから、正義を出せた。そう読むこともできると思います。

もし相手が屈強な男だったら、下人は梯子を降りていたかもしれません。

荒れ果てた羅生門の楼の上で、松明を手に女の死体の髪を抜く老婆
松明の火だけが照らしていた。ここから、下人の一夜が動きはじめる

正義の怒りは、どこから来たか

ここが、この小説でいちばん大事なところだと思っています。

下人の怒りは、本物です。演技ではありません。

でも、少し前まで彼は「盗人になろうか」と考えていた人です。

盗人になるかどうか迷っていた男が、死体の髪を抜く老婆を見て、本気で怒る。

矛盾しているようですが、たぶん違います。

人は、自分がやろうとしていることを他人がやっていると、いちばん腹が立つ。

下人が怒ったのは、老婆が悪いことをしていたからじゃない。

自分がこれからやろうとしていることを、先にやっている人間を見てしまったからです。

抜いた髪を何に使うのかは、老婆の口から語られます。

かつらにして売る。それで食いつなぐ。

目的まではっきりしているところが、かえって生々しいです。

この怒りは、長くもたない

下人の正義感は、ほんの数十秒しかもちません。

老婆を組み伏せた時点では、彼は完全に正しい側にいます。

そして老婆の言い訳を聞いた瞬間に、反対側へ行く。

この速さが怖いんです。

もし下人が何日も悩んだ末に盗人になったのなら、話は違っていました。それは転落の物語になります。

でもこの小説は、一晩の、それも数分の出来事です。

人が変わるのに、そんなに時間はいらない。芥川はそう言っている気がします。

老婆の論理——生きるためなら、仕方がない

捕まった老婆は、必死に言い訳をします。

この髪はかつらにして売る。そうしないと自分が飢え死にする。

そしてもうひとつ、こう続けます。

この死んでいる女も、生きているとき悪いことをしていた。蛇を干した魚だと偽って売っていた。

だから、自分がこの女の髪を抜くのも、きっとこの女は許してくれるだろう、と。

自分がやっていることと、この女がやっていたことは同じだ。老婆はそう言います。

老婆の言い分は、筋が通っています。少なくとも、通っているように聞こえる。

自分も飢えている。この女も生前に嘘をついていた。だからこれくらいは許される。

反論しようとすると、意外と難しいです。

そして、筋が通っているように聞こえる言い訳ほど、人に伝染します。

老婆は、悪を教えたわけじゃない

この言葉を聞いた瞬間、下人の中で何かが決まります。

彼は老婆の着物を剥ぎ取って、梯子を駆け下りて、闇の中へ消えます。

注意したいのは、老婆が下人を説得したわけじゃない、ということです。

老婆は自分の言い訳をしただけ。下人にどうしろとも言っていません。

でも下人は、その言い訳を自分のものとして使いました。

生きるためなら仕方がない。老婆がそう言うなら、おれがあんたの着物を剥いでも恨まないよな、と。

老婆は悪を教えたんじゃなくて、もともとあった悪に、名前をつけてやっただけだと思います。

人は、許可が出るのを待っています。誰かが先に言ってくれるのを待っている。

ここでにきびが、もう一度出てきます。

下人が決心する場面で、彼はにきびから手を離すんです。

それまでずっとさわっていた指が、離れる。

迷いが消えた、という合図です。説明は一行もありません。指の動きだけ。

こういう書き方を二十三歳でやっているのが、正直こわいです。

死んだ女のこと——一言も話さない人

この物語には、もうひとり出てきます。

髪を抜かれていた、死んだ女です。

彼女は一言も話しません。話せません。死んでいるので。

それなのに、彼女は物語の中でいちばん重い役をやらされています。

老婆は、自分を正当化するために彼女を使いました。

この女も悪いことをしていた。だから自分がしていることも許される、と。

下人は、その理屈をそのまま借りて、老婆から着物を奪いました。

つまり、死んだ女の話が、二回にわたって誰かの言い訳に使われている。

本人は、何ひとつ言い返せないまま。

物語の中で立場がいちばん弱い人が、いちばん都合よく使われる。

これは平安時代の話ではありません。いまも同じです。

何も言えない人ほど、いろんな話に登場させられます。

蛇を魚と偽って売った女は、悪だったのか

そこで考えてしまうんです。

この女は、本当に悪人だったのか。

蛇を干して、魚だと言って売っていた。たしかに嘘です。

でも、それをやらなければ生きていけなかったはずです。

老婆が髪を抜くのと、同じ理由じゃないでしょうか。

そして下人が着物を剥ぐのも、同じ理由です。

三人とも、生きるためにやっている。三人とも、誰かに悪と呼ばれる。

この連鎖に、最初の一手はありません。

誰かが最初に悪くなったわけじゃなくて、全員が同じ場所に立たされているだけです。

もうひとつ言うと、この連鎖には終わりもありません。

下人から着物を剥がれた老婆は、これからどうするんでしょうか。

たぶん、また誰かから何かを奪います。そして同じ言い訳をする。

芥川はそこを書いていません。書かなくても分かるからだと思います。

「悪と呼ぶなら、呼べばいい」

この物語で怖いのは、下人が改心しないことです。

普通の話なら、罪の意識に苦しんだり、あとで後悔したりします。

でも下人は、そういうことを一切しません。

迷いが消えて、身軽になって、出ていく。

悩んでいたときの彼のほうが、よっぽど苦しそうでした。

悪を選んだ瞬間に、人は楽になる。

そこを書いてしまうのが、芥川のいやらしいところだと思います。

悪を選んだ人が苦しむ話なら、読者は安心できます。

罰があるということだから。

この小説には、それがありません。だから後味が悪い。

そして、後味が悪いからこそ百年残ったんだと思います。

「下人の行方は、誰も知らない」——結末が書き換えられている

この小説の最後の一文は、有名です。

「下人の行方は、誰も知らない。」

突き放したまま終わります。

ただ、これはあとから書き換えられた結末です。

最初に発表されたときは違いました。下人は雨の中を、京都の町へ強盗を働きに急いでいた、という内容で終わっています。

行き先が書いてあったんです。

芥川はそれを消しました。

私は、この判断がすごいと思っています。

行き先を書くと、下人は「強盗になった男」で終わります。

消すと、下人はどこにでも行ける。読んでいる人の隣にも来られる。

誰も知らない、という一文は、下人を物語の外に出すための一文だと思います。

救いがないと言われる小説ですが、私は少し違う読み方をしています。

救いがないのではなく、逃げ道を全部ふさいであるだけです。

生きるためなら仕方がない、と言った瞬間に、誰も他人を責められなくなる。

その状態に読者を置いて、芥川は幕を下ろします。

土砂降りの雨の中、女物の着物を抱えて羅生門を離れていく下人の後ろ姿
行き先は書かれていない。だから下人は、どこへでも行ける

『藪の中』と並べると

芥川には『藪の中』という短編もあります。三人が三つの違う証言をして、真相が分からないまま終わる話です。

二つ並べると、扱っているものが違うのが分かります。

羅生門は、人がどこで線を越えるかの話。

藪の中は、越えたあとでそれをどう語るかの話です。

羅生門の下人が、あのあと誰かに捕まって取り調べを受けたら、たぶん『藪の中』の三人と同じことを言います。

仕方がなかった。ああするしかなかった。おれは悪くない。

そして本人は、それを本気で信じている。

教科書に載っているのは、書き換えられたあとのほうです。

だから多くの人は「行方は誰も知らない」で覚えています。

もし最初の版のまま残っていたら、この小説はここまで有名にならなかったかもしれません。

その『藪の中』も、ブログに書いています。

▶ 芥川龍之介『藪の中』あなたの真実は、誰かの嘘だ——三人が語ったこと

曲もあります。羅生門と続けて聴いてもらうと、芥川がどこを見ていたのかが分かりやすいと思います。

『今昔物語集』から来ている

この話には元ネタがあります。『今昔物語集』という平安時代の説話集です。

そちらでは、もっと単純な話になっています。盗人が羅城門に登って、老婆を見つけて、死人の着物と老婆の着物を奪って逃げた。

それだけです。

芥川が足したのは、下人の迷いのほうでした。

元の話の男は、最初から盗人です。迷っていません。

芥川はそこに「まだ盗人になっていない男」を置いて、一晩で変わるところを書いた。

だから、この短編は千年前の話なのに、いまの話に見えるんだと思います。

芥川はこのあと、『鼻』『芋粥』『藪の中』と書いていきます。どれも古い説話から材料を取ってきて、人間の嫌な部分を足したものです。

借りものの枠に、自分の見たものを入れる。

やっていることは、いまの私たちが名作を考察するのと、そんなに変わらないのかもしれません。

曲に込めたこと

今回の曲は、三つの視点を重ねて作りました。

下人、老婆、そして死んだ女です。

死んだ女のパートは、言葉を最小限にしました。彼女は原作で一言も話さないので。

それでも一番強く残るようにしたつもりです。声を出さない人がいちばん怖い、というのがこの物語だと思うので。

タイトルは「悪と呼ぶなら、呼べばいい」。

これは開き直りの言葉に聞こえますが、たぶん諦めの言葉です。

歌の最後は、雨の音で終わらせました。

この物語で最初から最後まで変わらないのは、雨だけなので。

おわりに

『羅生門』は教科書に載っている作品です。読まされた記憶がある人も多いと思います。

私も高校で読みました。そのときは、なんとなく怖い話だな、で終わっていました。

大人になって読み返すと、まるで違います。

下人が悪くなったことより、悪くなった瞬間に楽になったことのほうが、ずっと怖い。

生きるためなら仕方がない。この言葉を、自分は一度も使っていないと言えるでしょうか。

私は言えません。

文学作品の考察記事

音羽のブログでは、ほかにもこういう小説を書いています。

音羽(Otowa)について

小説や映画を読んで、頭から離れなくなったものを曲にしています。このブログの考察は、その曲の裏側です。

これまでに作った曲はYouTubeに置いています。ミステリーから絵本まで、いまのところ45本ほど。

▶ 物語考察MUSIC|音羽(YouTubeチャンネル)

チャンネル登録しておいてもらえると、新しい曲ができたときに届きます。よかったら。

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