東野圭吾さんの『容疑者Xの献身』の話をします。
ミステリーとしても有名ですが、わたしにとってはずっと石神の話です。
あの人のことを考えると、いまだに落ち着かない気持ちになります。
すごいことをした人なのに、まったく報われていない。
少なくとも計画を進めていたあいだの石神は、自分が報われなくてもいいと思っていたように見えます。
そこが、どうにも苦しいんです。
以下は音羽の勝手な読み方です。正解を書くつもりはありません。
念のため、話の枠だけ。
『容疑者Xの献身』は2005年に出た東野圭吾さんの長編で、直木賞を受賞しています。ガリレオシリーズの一作です。
弁当屋で働く花岡靖子と娘の美里が、押しかけてきた元夫・富樫を、もみ合いの末に殺してしまう。それに気づいた隣人の石神哲哉が、完璧な工作で彼女をかばう。
捜査に加わった物理学者の湯川学が、その相手が大学時代の友人だと気づくところから、話が動き出します。
福山雅治さん主演で映画にもなりました。堤真一さんの石神が、また忘れられない。
※真相に触れています。未読の方はご注意ください。
死のうとしていた人
石神は、数学の天才です。
でも小説の中では、高校で数学を教えているだけの人として出てきます。
生徒はまじめに聞かない。研究の道も断たれている。
あの人は、実際に死のうとしていました。
部屋で首を吊ろうとしていたところに、チャイムが鳴る。
引っ越してきた靖子と、娘の美里。
たったそれだけです。
挨拶をされただけ。
それで、石神は死ぬのをやめました。
あそこの書き方が、本当にうまいと思うんです。
靖子は特別なことを何もしていません。
引っ越しの挨拶をして、それだけ。
たぶん本人は、翌日には忘れています。
でも石神にとっては、人生が変わった日でした。
人を救う瞬間って、救った側は気づかないことがある。
この非対称さが、最後まで効いてきます。
誰かの何気ない一言に助けられたこと、たぶん誰にでもあると思います。
でも、その相手にお礼を言えたことって、そんなにない。
石神の場合、それが極端に振り切れてしまっただけなのかもしれません。
あの日、靖子が来なかったら。
石神はたぶん、その日のうちに死んでいました。
人ひとりの生死が、隣人の挨拶で決まる。
そう思うと、日常のちょっとしたやりとりが急に重く見えてきます。
石神哲哉の読み方は「いしがみ てつや」——どんな人物か
読み方はいしがみ てつやです。
高校の数学教師。ただ、数学者としては一流で、本当ならもっと違う場所にいるはずだった人です。
隣に住む花岡靖子と娘が事件を起こしてしまったとき、この人が全部を引き受けます。
湯川学とは大学時代の同期でもある。この二人の関係が、この小説のもうひとつの軸です。
名前で検索して来た人へ。彼が何をしたのかは下の章に書いていますが、先に一行だけ。献身、という言葉では足りないと思っています。

恩返しじゃなかったと思う
よく「命を救われた恩返し」として語られます。
でも、わたしはちょっと違う気がしています。
恩返しという言葉だけでは、石神の行動を言い尽くせない気がします。
石神と靖子は、対等じゃない。
というか、石神は対等になろうとすらしていません。
隣に住んでいても、親しくなろうとして距離を縮めることはしません。
弁当屋に毎日行くだけ。
あれは恋なんですが、届けるつもりのない恋です。
石神は、靖子と結ばれることを計画の見返りにはしていません。
ただ、そこに期待や嫉妬がまったくなかったかどうかは、別の話だと思います。
あの人にとって靖子は、生きる理由であって、恋人候補じゃないんです。
ここが普通の恋愛小説と全然違うところで、だから余計にしんどい。
見返りを求めない、というのは、聞こえはいいけど、けっこう怖いことでもあります。
関係を持たないぶん、相手を理想のままにしておける。
話しかけたら、幻滅するかもしれない。
石神は、それをしなかった。
遠くから見ているだけの関係のほうが、あの人には安全だったんだと思います。
弁当を買うときの会話も、たぶん毎回同じです。
いつもの、で通じるくらいの。
あれで十分だった、というのが切ないところです。
▼ 石神の視点で書いたオリジナル曲はこちら
あの人がやったこと
事件が起きて、石神は靖子を守ろうとします。
ここからが、この小説のいちばん怖いところです。
石神は、アリバイを作るんじゃなくて、問題そのものを作り替えました。
警察が解いている問題が、そもそも違う問題だった。
幾何の問題に見せかけて、関数の問題を出す。
作中でそう説明される場面がありますが、あれを読んだとき、背筋が寒くなりました。
人間の思考の癖を、完全に読み切っている。
天才って、こういうことなんだと思います。
しかも石神は、そのトリックを誰にも自慢しません。
こんなにすごいことをやったのに、黙って刑務所に行こうとする。
数学者にとって、解いた証明を発表できないのって、相当つらいはずです。
それすら捨てている。
石神の毎日には、ほとんど何も起きていません。
その空白に、弁当屋に行く時間だけが入っていた。
あと、石神は自分を平凡だと思っていません。
自分が優秀なことは、たぶんちゃんとわかっている。
わかっていて、それが誰の役にも立っていないことも、わかっている。
能力があるのに使い道がない、って、けっこうきついです。
だから靖子のために頭を使えたことは、あの人にとって喜びだったんじゃないかと思います。
そこがいちばん怖いところでもあるんですが。

でも、やったことは
ここは、はっきり書いておきたいです。
石神がしたことは、殺人です。
しかも、まったく関係のない人を殺している。
靖子を守るために、別の誰かの人生を消した。
その人にも生活があって、明日の予定があったはずです。
どんなに動機が切なくても、そこは変わらない。
美しい話として読んでしまいそうになるけど、その手前でいつも止まります。
この小説がずるいのは、そこを最後まで気づかせないところです。
読者はずっと石神に感情移入して読んでしまう。
真相がわかった瞬間に、自分が何に共感していたのかを突きつけられる。
あの読後感は、たぶんわざとです。
東野圭吾さん、性格が悪いなと思いました。褒めてます。
この本が出たとき、賛否があったのも覚えています。
あんな殺され方をした人が浮かばれない、という意見。
わたしも、その気持ちはわかります。
感動だけで終わらせたくない気持ちもあります。
石神の行為を「究極の愛」と呼ぶ人もいます。
わたしは、そこまで言い切れません。
愛だったのは本当です。でも、愛だからいいという話にはならない。
わたしは、その両方を抱えたまま読みたいです。
その両方を持ったまま読むのが、たぶん正しい気がしています。
あと、石神が計画を立てるときの冷静さ。
あそこには、恋の熱っぽさが一切ないんですよね。
数学の問題を解くのと同じ顔で、人の生死を扱っている。
その温度差が、いちばんぞっとするところです。
湯川のこと
湯川は、石神の大学時代の友人です。
この二人の関係が、また切ない。
湯川だけが、石神を天才として認めていました。
そして湯川だけが、石神のやったことに気づいてしまう。
友達だから解けてしまった、というのがきついです。
わかってくれる人がひとりいたことは、石神にとって救いだったと思います。
でも、その人が自分を追い詰めることになった。
うれしいのか、つらいのか。たぶん両方です。
湯川が石神に会いに行く場面がいくつかありますよね。
二人の会話、ほとんど数学と物理の話なんです。
でも、あれが友情なんだと思います。
近況を報告しあうだけが友達じゃない。
十何年会っていなくても、同じ問題の話ができる相手。
だからこそ、湯川は気づいてしまった。
石神を理解できる唯一の人が、石神を止める役になる。
よくできた話だなと思います。むごいけど。
二人が解いていた問題
湯川と石神は、大学のころ、同じ問題に夢中になっていた仲です。
湯川は大学で研究を続け、石神は大学に残る道を離れました。
それでも、数学への思いまで失ったわけではありません。
この差って、才能じゃなくて運だと思うんです。
石神は、家の事情で研究の道を離れています。
もし続けられていたら、あの人はまったく違う人生を歩いていた。
そう考えると、この物語は事件が起きる前から悲しい。
湯川が石神を訪ねるきっかけは、草薙から事件関係者としてその名前を聞いたことでした。
自分は続けられて、あいつは続けられなかった。
その再会には、友人の才能や、いまの境遇への思いも重なっていたように、わたしには感じられました。
靖子を、簡単には責められない
靖子を責める読み方もあると思います。
でも、わたしは無理だと思っています。
靖子は、石神がそこまでするなんて知らなかった。
知らないまま守られていた。
あとから真相を知って、彼女がどれだけ苦しんだか。
あの選択をした靖子のことを、わたしは責められません。
娘の美里のことも忘れられません。
美里も、あの場にいました。母親と一緒に手を下して、その秘密と罪悪感を抱えることになります。
十代の子が、そんな秘密を抱えて学校に通う。
終盤、美里は自殺を図ります。靖子が自首を決めるのは、そのあとです。
この小説、みんな誰かのために黙っているんですよね。
石神も、靖子も、美里も。
黙ることが優しさになって、それが全員を追い詰めていく。
相談していれば、たぶん誰も死ななかった。
でも、みんな相手を守ろうとして黙った。
善意が最悪の結果を作る話って、東野圭吾さんは本当にうまいと思います。
誰かを守りたいという思いがあっても、別の人を傷つけた責任は消えない。その両方を突きつけられるところで、わたしは立ち止まってしまいます。
この人の小説を読むと、いつもそこで止まってしまいます。

結末——石神は、最後に何をしたのか
ラストの、あの叫び声。
あそこだけは、何度読んでも心臓が痛くなります。
石神はずっと、感情を出さない人でした。
計算だけで生きているように見えた人が、最後の最後で崩れる。
あの声は、たぶん「無駄になった」ことへの声じゃないと思います。
自分の献身が、相手を苦しめてしまったと気づいた声。
いちばん守りたかったものを、自分の手で壊した。
献身って、きれいな言葉です。
でも、相手の意思を無視した献身は、たぶん暴力に近い。
石神は、自分が何を犠牲にし、誰を巻き込むのか、その全体を靖子に知らせませんでした。
止められる可能性を避けて、黙って進めたように見えます。
そこがあの人の限界だったんだと思います。
人を好きになるって、本当は相手に聞くことから始まるはずなので。
とはいえ、あの状況で相談できたかというと、たぶん無理です。
言えば靖子は止めたでしょうし、石神はそれをわかっていた。
だから黙るしかなかった。
そこまで含めて、詰んでいる話なんだと思います。
もし石神に、友達がひとりでもいたら。
相談できる相手が、湯川以外にひとりでも。
たぶん、あそこまではいかなかった。
孤独って、こういう形で人を壊すんだなと思いました。
世間から見れば、石神はただの地味な数学教師です。
誰も、あの人の中で何が起きているか知らない。
隣に住んでいた靖子でさえ、知らなかった。

愛は証明できない
数学は、証明できます。
正しいことを、正しいと示せる。
石神が生きてきたのは、そういう世界です。
でも、気持ちだけは証明できない。
だからあの人は、自分の人生を使って示そうとしたんだと思います。
それしか、やり方を知らなかった。
不器用なんて言葉じゃ足りないです。
犯人の側から書いた記事としては、『十角館の殺人』もあります。あちらの守須も、最後まで自分からは何も言いませんでした。
曲に込めたこと
この物語をもとに作った曲は、石神の視点で書きました。
事件のことは、ほとんど書いていません。
書いたのは、弁当屋に行く道のことです。
毎朝、同じ時間に、同じ道を歩く。
それだけで一日が成立していた人の歌にしたかった。
サビも、あまり盛り上げないようにしました。
石神は、感情を外に出す人じゃないので。
最後の一行だけ、少しだけ崩れる形にしています。
あと、歌詞に靖子の名前は出していません。
石神は、心の中でも名前で呼んでいなかった気がしたので。
隣の部屋の人、くらいの距離のまま書きました。
録るときも、あまり感情を込めないようにしました。
淡々と歌ったほうが、あの人らしいと思ったので。
もしよかったら、小説を思い出しながら聴いてみてください。
※ここから先は、『秘密』の結末にも触れます。
もう一冊の東野圭吾——『秘密』の直子も、黙って消えた人です
石神の話を書いたあと、どうしても並べたくなる作品があります。同じ東野圭吾の『秘密』です。
『秘密』は、妻の直子と娘の藻奈美がバス事故に遭い、直子が娘の体で生き続けることになる話です。夫の平介は、娘の姿をした妻と暮らしていく。
そして最後、直子は平介に嘘をつきます。「藻奈美が戻ってきた」と。
本当は、戻ってきてなどいない。直子はずっと、娘を演じ続けていた。平介を自由にするために、自分がいないことにしたんです。
相手のためだと考えて、真実を伏せる。その点では、わたしは直子を思い出します。
石神は靖子を守るために、自分の人生を全部差し出しました。そして最後まで、本当のことを本人に言わなかった。直子も同じです。相手のために、本当のことを言わずに、自分から消える。
どちらも、言う代わりに黙って引き受けた人です。ただ、石神が無関係の人の命を奪ったことまで、直子と同じにはできません。
石神の最後の慟哭が忘れられない人は、直子の嘘にも引っかかるはずです。→ 『秘密』直子はなぜ最後に嘘をついたのか
おわりに
この本を読み終えたあと、しばらく何も手につきませんでした。
石神を許せるかというと、たぶん許せない。
でも、忘れられない。
その両方を抱えたまま置いていかれる感じが、この小説の力だと思います。
ミステリーって、真相がわかるとすっきりするものだと思っていました。
この本は、わかった瞬間にいちばん苦しくなる。
そういう読書体験は、そんなに多くないです。
もしまだ読んでいない方がいたら、映画より先に小説をおすすめします。
この記事と曲が、あなたにとって、あの人のことをもう一度考えるきっかけになれば嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
東野圭吾作品の考察記事
音羽のブログでは、東野圭吾さんの作品をほかにも書いています。
よかったら、あわせて読んでみてください。
- 『白夜行』雪穂は本当に冷たい女だったのか
- 『秘密』直子はなぜ最後に嘘をついたのか
- 『手紙』弟は兄を憎みきれなかった
- 『夜明けの街で』渡部はなぜ一線を越えたのか
- 『白鳥とコウモリ』被害者の娘と、加害者の息子
- 『虚ろな十字架』死刑は誰を救うのか
- 『ナミヤ雑貨店の奇蹟』松岡克郎は報われたのか
- 『殺人の門』田島はなぜ、あの男を殺せなかったのか
- 『幻夜』水原雅也はなぜ、美冬から離れられなかったのか
音羽(Otowa)について
音羽は、小説や映画、童話を題材に、登場人物の心情を歌にしているチャンネルです。
あらすじをなぞるのではなく、その人が何を感じていたかを想像しながら、歌と文章で書いています。
▼ 『容疑者Xの献身』の世界を描いたオリジナル曲
▼ 音羽チャンネルはこちら(チャンネル登録お願いします!)
https://www.youtube.com/channel/UCFrbhcvlbZ7YQn31F5neoDg

