『方舟』犯人は、なぜあの数日を平然と過ごせたのか——音羽が真犯人の側から考えた話

物語の考察

夕木春央さんの『方舟』の話をします。

最初に言っておきます。

この小説は、最後の数ページで全部ひっくり返ります。

まだ読んでいない人は、ここで引き返してください。

本当に、もったいないので。

わたしは何も知らずに読めました。

読み終わったあと、本を持ったまま固まりました。

※以下、犯人と結末に完全に触れます。

いちおう、本の枠だけ。

『方舟』は2022年に出た夕木春央さんの長編です。

その年のミステリランキングで軒並み上位に入りました。

SNSでも「最後の一撃」がずいぶん話題になった一冊です。

2023年の本屋大賞にもノミネートされています。

分厚くもないし、文章も読みやすい。

なのに、読後感だけが異様に重い。

そういう本です。

どういう状況か

山の中に、地下建築があります。

宗教施設か何かの跡で、地下に何階もある。

そこに、若い男女のグループと、途中で合流した家族が入ります。

全部で十人。

そこで地震が起きます。

岩が落ちてきて、出口がふさがる。

しかも、水が入ってきている。

一週間ほどで、全部沈む。

この設定が、まず息苦しいです。

スマホは圏外。助けは来ない。

時間だけが確実に減っていく。

しかも、水位が具体的に書かれるので、読んでいるこっちも焦ってきます。

あと何日、と数えながら読むことになる。

しかも、閉じ込められているのに退屈な時間もあります。

やることがないので。

その空白の時間に、人は考えすぎる。

この体感の作り方がうまいです。


▼ この物語をもとにしたオリジナル曲はこちら


方舟の中は、どうなっているのか

この小説は、建物の作りがわからないと面白さが半分になります。短くまとめます。

  • 地下三階建て。上から地下1階・地下2階・地下3階
  • 出入り口は地下1階から。ここが地震で落ちてきた大岩にふさがれる
  • 非常口は地下3階から。ただし、水が入ってくるのは下からなので、先に沈む
  • 地下2階に巻き上げ機がある。これを動かすと、地下1階の大岩を地下2階に落とせる

つまり、大岩を下に落とせば、出入り口は開きます。

ただし問題があって、巻き上げ機を動かした人は、その部屋から出られません。落ちてきた岩が、通り道をふさぐからです。

これが「ひとりが残る」の正体です。装置を動かす係が、そのまま死ぬ係になる。

九人が助かって、ひとりが死ぬ。こういう形の建物だから、この話し合いが成立します。

十人の顔ぶれ

閉じ込められるのは、この十人です。

  • 越野柊一——語り手。システムエンジニア
  • 篠田翔太郎——柊一の従兄。推理する役
  • 西村裕哉——ここに行こうと言い出した人
  • 絲山隆平——大学の登山サークル仲間。ジムのインストラクター
  • 絲山麻衣——隆平の妻。幼稚園の先生
  • 高津花——はっきりものを言う人
  • 野内さやか——丁寧な話し方をする人
  • 矢崎幸太郎——途中で合流した一家の父。電気工事士
  • 矢崎弘子——その妻
  • 矢崎隼斗——その息子。高校一年生

殺されるのは、まず西村裕哉。そのあと野内さやかです。

さやかのほうは、遺体の首がありません。この首なし死体が、議論をさらにややこしくします。

名前を見てもらうとわかりますが、絲山隆平と絲山麻衣は夫婦です。しかも、仲はあまりよくない。これが後半で効いてきます。

ひとり残れば、助かる

ここからが、この小説の設定の残酷なところです。

脱出する方法はあります。

ただ、誰かひとりが中に残って、装置を動かさないといけない。

残った人は、確実に死にます。

九人が助かって、ひとりが死ぬ。

じゃあ、誰が残るのか。

この話し合いを、閉じ込められた十人でやることになります。

全員が納得する答えなんて、ありません。

誰も手を挙げないし、挙げられない。

年齢とか、家族がいるかとか、そういう話も出ます。

人の命に順番をつける会話です。

あの場面を読んでいるあいだ、ずっと居心地が悪かった。

自分だったら何と言うだろう、と考えてしまうので。

そして、いい答えが出てこない。

そこに、殺人が起きる

その状況で、ひとりが殺されます。

こんなときに、と誰もが思います。

で、生き残った人たちはこう考えます。

人を殺したやつが残ればいい、と。

これ、すごい理屈です。

犯人探しが、そのまま生贄探しになる。

推理する動機が、真相を知りたいからじゃない。

自分が死にたくないからです。

推理小説なのに、探偵役が公平じゃない。

全員に、自分だけは助かりたいという動機がある。

だから、推理がどんどん歪んでいきます。

あいつが怪しい、と言いたくなる気持ちが混ざる。

冷静に見える議論の下に、全員のエゴが流れている。

正しいことを言っている人ほど、疑わしく見えてきます。

この設定が、うまい

普通のミステリだと、犯人を見つけるのは正義のためです。

この小説では、そうじゃありません。

見つけないと、自分が死ぬかもしれない。

だから、みんな必死になります。

しかも、時間制限がある。

水は毎日上がってくるので。

こんな理屈で人が推理する話、ほかに読んだことがありません。

しかも、間違えても誰も責任を取れません。

間違った人を残して、外に出て終わりです。

確認しようがない。

そこも、この設定のえげつないところです。

犯人の立場から見ると

ここからが、この記事で書きたいところです。

犯人にとって、この状況はどう見えていたか。

普通なら、最悪です。

閉じ込められた空間で殺人をやったら、逃げ場がありません。

でも、この状況にはひとつだけ抜け道があります。

誰かひとりが残ることが、すでに決まっているという点です。

つまり、自分以外の誰かを犯人ということにできれば。

その人が残って、自分は外に出られる。

つまり、この事故は犯人にとって逃げ道になりました。

普通の殺人事件なら、警察が来て、証拠を調べられます。

でも、ここは違う。

現場ごと水に沈むので。

証拠も、遺体も、全部消える。

こんなに都合のいい状況は、そうそうありません。

全員が別のゲームをしている

ここが、この小説のいちばん怖いところだと思います。

ほかの人たちは、必死に推理しています。

誰が殺したのか。誰が残るべきなのか。

まじめに、悩みながら話し合っている。

でも、その中にひとりだけ、答えを知っている人がいる。

その人は、議論を誘導すればいいだけです。

全員が真剣な顔で話しているあいだ、ひとりだけ別のことを考えている。

想像すると、寒くなります。

人が本気で悩んでいるところに、平気な顔で混ざれる。

しかも、悩んでいるふりまでできる。

わたしは、そこがいちばん理解できない部分でした。

罪悪感で顔に出そうなものですが、出ない。

人間、追い詰められるとそこまでできるのか、と思いました。

麻衣という人

そして、真犯人は麻衣でした。

語り手の柊一が、ずっとそばにいた女性です。

読者も、彼女を信じて読んでいます。

というより、疑う理由がない。

語り手が信じている人を、読者も信じてしまうので。

この構造を使われると、まず気づけません。

しかも、語り手は嘘をついていません。

見たことを、そのまま書いている。

ただ、見えていなかっただけです。

読者は語り手の目でしか世界を見られないので、同じ穴に落ちる。

綾辻行人の『十角館の殺人』でも似た仕掛けが使われますが、この手のやり方は本当にずるい。

ずるいのに、フェアなんですよね。

結末——方舟のラストと、あの種明かし

ここから結末に触れます。この小説は、最後の数ページで景色が変わります。未読の方は、ここで止めてください。

最後、残るのは柊一に決まります。

そして、ほかの九人は上へ向かう。

読者はそこで、悲しいけど仕方ない、と思っています。

で、そのあとに数ページ。

麻衣の側から、種明かしが来ます。

ここからが本題です。

あの巻き上げ機は、動かしても意味がありませんでした。

地下1階の大岩を落としたところで、その先にある上げ蓋が土砂で埋まっている。開かないんです。

つまり、誰がひとり残ろうと、外には出られない。

あの一週間、十人で真剣に話し合っていた「誰が死ぬか」は、最初から意味のない議論だったということになります。

では、麻衣はどうやって出たのか。

非常口です。

地下3階にある、水に沈んだほうの出口。ダイビングの機材で潜れば、そこから抜けられる。

それを知っていたのは、麻衣だけでした。

しかも、麻衣は柊一を連れて出るつもりでいました。ハーネスを二つ用意していたからです。

そうならなかったのは、柊一のほうが麻衣を見捨てようとしたからです。

あれを読んだときの感覚は、なかなか言葉にできません。

騙されたというより、足元が抜ける感じでした。

しかも、種明かしのあとに救いがありません。

犯人が捕まる場面もない。

反省もしていない。

そのまま本が終わります。

あの終わり方に、賛否が分かれるのもわかります。

わたしは、あれでいいと思っています。

きれいに片づけたら、この小説の意味がなくなるので。


▼ 『方舟』の世界を描いたオリジナル曲


なぜ、そこまでできたのか

わたしがずっと考えているのは、そこです。

人を殺すだけでも大変なことです。

そのうえ、自分の罪をかぶせて、知り合いを死なせている。

しかも、最後まで態度に出さない。

あの何日かを、平然と過ごしている。

普通の神経では、たぶん無理です。

でも、この人は普通じゃなかった。

それだけの話なのかもしれません。

もしかしたら、最初から計画していたわけでもない気がします。

地震が来て、閉じ込められて、そのあとに最初の殺人が起きます。

偶然できた状況を、うまく使っただけかもしれない。

だとすると、余計にこわいです。

計画的な悪より、その場で判断できる冷静さのほうが。

生きたい、という理由

ただ、正直に書いておきます。

この小説、動機ははっきり書かれていません。

作中で翔太郎が、動機なんてどうでもいい、という意味のことを言います。わからなくても困らない、と。

ミステリでこれを言わせるのは、かなり思い切っています。

そのうえで、わたしの読み方を書きます。

動機は、突きつめると単純です。

死にたくなかった。

それだけです。

立派な理由も、悲しい過去もありません。

そこが、この小説の新しさだと思っています。

日本のミステリは、動機に物語をつけたがります。

かわいそうな事情があって、仕方なく、という形。

この作品は、それをやりません。

生きたかったから、他人を死なせた。

身も蓋もないぶん、こわいです。

しかも、これって責められない気持ちでもあります。

生きたい、というのは全員が持っているものなので。

程度が違うだけです。

あの場にいた全員が、心の底では同じことを思っていた。

ただ、そのために行動した人がひとりだけいた。

その差だけです。

だから読者は、簡単に見下せません。

自分の中にも同じものがあると、わかってしまうので。

タイトルのこと

方舟。

ノアの方舟は、選ばれた者だけが乗る船です。

乗れなかった者は、水に沈む。

この物語も、まったく同じ形をしています。

しかも、選ぶのは神ではありません。

人間が、話し合いで決める。

その決め方に、ひとり嘘をついている人がいる。

うまいタイトルだと思います。

あと、方舟は本来、助かるための船です。

でもこの物語では、地下の閉じた空間そのものが方舟になっている。

助かる場所じゃなくて、沈む場所です。

意味が逆になっている。

自分だったら

読み終わってから、ずっと考えていました。

自分があの場にいたら、残ると言えるだろうか。

たぶん、言えません。

黙って、誰かが決まるのを待つと思います。

麻衣ほどのことはできなくても、積極的に手を挙げることもない。

その中間にいる人が、いちばん多いはずです。

この小説は、そこを見透かしてくる感じがあります。

誰も、悪人として書かれていません。

みんな、普通の人です。

普通の人が、命がかかると何をするか。

そこだけを見せてくる小説だと思います。

だから読み終わったあと、人が信じられなくなるというより、自分が信じられなくなる。

残された柊一のこと

最後に、柊一のことも書いておきたいです。

この人は、ずっとまともな側にいました。人のことを考えて、話し合いをまとめようとしていた。

その人が、残る役になります。

つらいのは、そのあとです。

柊一は、何も知らないまま死ぬわけではありません。

知らされてから、死にます。

大岩が落ちてくるのを待っている柊一に、麻衣がトランシーバーのアプリで話しかけてくる。そこで全部を聞かされます。

自分が犠牲になる必要なんて、最初からなかったこと。本当は、連れて行かれる側だったこと。

それを全部わかった状態で、あの水の中にいることになる。

わたしは、そこがいちばんきつかったです。

しかも、そうなったきっかけは柊一自身の判断でした。見捨てようとしたから、見捨てられた。

いい人だった、で終われないところが、この小説の底意地の悪さだと思います。

そして、外に出られたのは麻衣ひとりです。残りの九人は、全員あそこで終わります。

曲に込めたこと

この物語をもとに作った曲は、真犯人の視点で書きました。

後悔の歌にはしていません。

あの人は、たぶん後悔していないので。

書いたのは、外に出たあとの時間です。

普通に生きていくしかない日々。

何を食べても、たぶん味はする。

そういう静けさを、そのまま歌にしました。

メロディも、暗くしていません。

罪の歌にすると、あの人らしくないので。

普通の顔で歩いている人の歌です。

そのほうが、たぶんこわい。

この小説が合う人、合わない人

はっきり分かれる本だと思うので、書いておきます。

合わないかもしれない人

  • 救いがほしい人——ありません。犯人は捕まらないし、反省もしません
  • 動機をきちんと説明してほしい人——説明されません。そういう作りです
  • 登場人物を好きになって読みたい人——全員が自分の命の計算をしています
  • 後味を引きずりたくない人——数日残ります

刺さると思う人

  • 設定そのものを味わいたい人——閉じ込められた建物のルールが、そのまま謎になります
  • 二度読むのが好きな人——一度目と二度目で、完全に別の小説になります
  • 『十角館の殺人』で足元が抜けた人——同じ種類の衝撃があります
  • 人間を信じすぎていないと自覚がある人——いちばん楽しめると思います

わたしは、読み終わってしばらく人と話したくなりました。誰かに聞いてほしかったんだと思います。

おわりに

この本は、二度読むとまったく違う小説になります。

一度目は、閉じ込められた人たちの話。

二度目は、ひとりの人が全員を操っている話です。

同じ台詞が、まるで別の意味に見える。

二度目のほうが、圧倒的にこわいです。

あの人がどこで何を言っていたか、全部わかって読むことになるので。

心配そうな台詞も、提案も、全部が計算に見える。

もし読み返す機会があれば、そこを見てみてください。

本当に、隅々まで仕込まれています。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

→ これまでに考察した作品の一覧はこちら

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あらすじをなぞるのではなく、その人が何を感じていたかを想像しながら、歌と文章で書いています。

本格ミステリの考察記事

音羽のブログでは、ほかにもこういう作品の考察を書いています。

  • 『容疑者Xの献身』(東野圭吾)——石神哲哉はなぜ、あそこまでやったのか
  • 『八つ墓村』(横溝正史)——田治見要蔵を怪物にしたのは誰か
  • 『火車』(宮部みゆき)——新城喬子はなぜ、人の名前が必要だったのか

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