妹を殺した男は、罰を受けませんでした。
十五歳だったから。そして、心神喪失だったから。
その男が何年もあとに、結婚して、子どもができて、普通に暮らしていると知ったとき、兄は何を考えたか。
森田芳光監督『39 刑法第三十九条』です。今回は、その兄——工藤啓輔の側から書きます。
- 『39 刑法第三十九条』はどういう映画か——あらすじ
- 登場人物と読み方
- 刑法第三十九条は、たった二行
- 妹が殺された日
- 妹の名前は、一度しか出てこない
- 畑田修という人を、どう扱うか
- 啓輔がやったのは、名前を買うことだった
- 他人の父親の、息子になる
- 自分の名前を、他人に渡していた
- なぜ「無罪になる」では足りなかったのか
- 多重人格を演じるということ
- 長村時雨という弁護士
- 藤代教授は、間違えたのか
- 小川香深は、何に気づいたのか
- 遺族は、どこに置かれるのか
- タイトルが数字なのは、なぜか
- 『火車』『砂の器』との違い
- この映画を観たあとに、気をつけたいこと
- あの映画から二十五年、法律は変わった
- では、何が解決したのか
- もし自分が、あの席に座っていたら
- 森田芳光が選んだ色
- いま観ると、もっと重い
- 本当に裁かれたのは誰か
- 曲に込めたこと
- おわりに
- 名前と過去をめぐる考察記事
- 音羽(Otowa)について
『39 刑法第三十九条』はどういう映画か——あらすじ
一九九九年の作品です。原作は永井泰宇さん、脚本は大森寿美男さん。主演は鈴木京香さんと堤真一さん。
夫婦が刺し殺されます。妻は妊娠していました。
捕まったのは劇団員の柴田真樹。現場に芝居のチケットが落ちていました。
国選弁護人の長村時雨は、柴田の顔つきが急に変わるのを見ます。別人のようになる。法廷でも、意味の通らないことを言い出す。
長村は精神鑑定を請求しました。
鑑定人に選ばれたのは、精神科教授の藤代実行。助手に呼ばれたのが、教え子の小川香深です。
藤代の鑑定は、解離性同一性障害——多重人格。犯行時は解離状態だった。
刑法第三十九条により、心神喪失者の行為は罰しない。つまり無罪です。
ただ、香深だけが、別の仮説を立てました。
登場人物と読み方
- 柴田真樹(しばた まさき)——堤真一。被告。劇団員
- 工藤啓輔(くどう けいすけ)——この名前が、この映画の中心です
- 小川香深(おがわ かぶか)——鈴木京香。精神鑑定の助手
- 藤代実行(ふじしろ じつぎょう)——杉浦直樹。精神科教授。鑑定人
- 長村時雨(ながむら しぐれ)——樹木希林。国選弁護人
- 畑田修(はただ おさむ)——入江雅人。殺された夫
- 名越文雄(なごし ふみお)——岸部一徳
- 草間道彦(くさま みちひこ)——江守徹
- 柴田利光(しばた としみつ)——國村隼
「香深」で「かぶか」。一度では読めません。
刑法第三十九条は、たった二行
条文はこれだけです。
心神喪失者の行為は、罰しない。
心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
二行です。
罪を犯したとき、善悪が判断できない状態だったなら、その人に責任は問えない。そういう考え方です。
理屈としては、分かります。
ただ、この二行は、殺された側には何も言ってくれません。
妹が殺された日
畑田修には、前があります。
十五歳のとき、小学一年生の少女を殺しました。婦女暴行と殺人です。
殺されたのは、工藤啓輔の妹でした。
畑田は心神喪失を認められ、罪を問われていません。そのあと名前のある社会に戻り、結婚して、妻は妊娠していました。
兄のほうは、どうなったか。
映画はそこを長く説明しません。ただ、そのあと啓輔がやったことを見れば、だいたい分かります。
彼は、ほとんど人生を使いました。
妹の名前は、一度しか出てこない
殺された妹には、名前があります。温子。
ただ、この映画は彼女をほとんど映しません。
事件は十年以上前の出来事として、断片だけが出てきます。
兄がどれだけのことをしたかに比べて、妹の姿は驚くほど薄いです。
これは手抜きではないと思います。
殺された人は、年月が経つほど消えていきます。残るのは、残された人のほうです。
啓輔が八年かけて作ったのは、妹を取り戻すための装置ではありません。妹がいなくなったあとの自分を、どこかに置くための装置です。
復讐の話は、だいたいそうなります。
畑田修という人を、どう扱うか
殺されたのは、過去に人を殺した男です。
この映画は、そこを雑に処理していません。
畑田は十五歳でした。そのあと三十九条で罰を受けずに社会に戻り、働いて、結婚して、子どもができるところまで来ていた。
やり直せていた、とも言えます。
制度としては、それが正しいはずです。罰を受けないまま社会に戻った人が、普通に生きている。それは制度が機能した姿でもある。
でも妻は妊娠していました。
殺されたのは畑田だけではありません。
啓輔は、自分が憎んだのと同じ形のものを、作ってしまった。妹を奪われた人間が、生まれてくるはずだった子どもを奪っています。
彼が本当に裁かれたかったのは、たぶんそこです。

啓輔がやったのは、名前を買うことだった
柴田真樹という男がいました。身寄りがなく、すでに死んでいます。
啓輔は、その戸籍を手に入れました。
そして八年近く、柴田真樹として生きます。
劇団に入り、芝居をやり、精神医学の本を読み漁りました。多重人格の症状を、鑑定を通るだけの精度で身につけるためです。
これは思いつきではできません。
復讐というと、どこかで爆発する絵を想像します。でもこの人のやったことは、逆です。八年かけて、少しずつ自分を消していった。
他人の父親の、息子になる
戸籍を買うだけなら、紙の話です。
この映画が怖いのは、その先があることです。
柴田真樹には父親がいました。柴田利光。長いこと息子と連絡が取れていなかった人です。
啓輔は、その人の前に現れます。
そして、息子として受け入れられました。
書類だけでは足りなかったんだと思います。誰かに「真樹」と呼ばれて初めて、名前は本物になる。
妹を殺された兄が、他人の父親の息子になっている。
ここだけ切り取ると、何の話か分からなくなります。
自分の名前を、他人に渡していた
もうひとつ、見落としやすいところがあります。
香深が「工藤啓輔」を探し当てて会いに行く場面があります。
その男は、今回の事件には興味がない、と言います。
でも、その人は啓輔ではありません。砂岡明という別の男が、工藤啓輔として暮らしていました。
つまり啓輔は、他人の名前をもらっただけではなく、自分の名前を他人に渡していた。
二人分の人生を入れ替えて、辻褄を合わせたわけです。
そこまでやる人が、鑑定の場で演技を間違えるとは思えません。
なぜ「無罪になる」では足りなかったのか
ここが、この映画でいちばん読み違えやすいところです。
啓輔の目的は、三十九条で逃げ切ることではありませんでした。
逃げたいだけなら、捕まらない方法をいくらでも選べたはずです。あれだけ準備できる人です。
でも彼は、現場に芝居のチケットを落としています。
捕まるつもりだったということです。
妹を殺した男は、三十九条で罰を受けなかった。
なら、同じ条文を使って同じことをやってみせる。それが通ってしまうなら、この法律は何なのか。
彼が欲しかったのは無罪ではなく、法廷という場所でした。
だから公開の鑑定を受けて、人が見ている前で、三十九条を使って見せようとした。
復讐の相手は、畑田修だけではありません。
多重人格を演じるということ
啓輔は劇団員でした。
職業が俳優である必要が、この話にはあります。
彼は八年間、柴田真樹という役を演じ続けました。父親の前でも、劇団でも、取り調べでも。
そして最後に、もうひとつ別の人格を演じます。
役の中で役をやる。
舞台で一人芝居をしている最中に逮捕される、という始まり方も、よくできています。あの時点で芝居はもう始まっていた。
長村時雨という弁護士
樹木希林さんが演じています。
この人がいなければ、話は始まりません。
柴田の様子がおかしいことに気づいて、精神鑑定を請求したのは長村です。
皮肉なのは、啓輔の計画を動かしたのが、彼を助けようとした人だったことです。
国選弁護人として当たり前の仕事をしただけで、結果的に、彼の舞台装置になっている。
この映画には、そういう人が何人も出てきます。悪意なく、正しく動いて、誰かの計画の一部になっていく。

藤代教授は、間違えたのか
鑑定人の藤代は、柴田を多重人格だと判断しました。
結果だけ見れば、外れています。
ただ、藤代が手を抜いたようには描かれていません。
彼は症状を見て、知識に照らして、筋の通る結論を出した。相手が、通ることだけを目的に八年かけて準備してきた人だった、というだけです。
専門家が見抜けないように作られたものを、専門家が見抜けなかった。
これは、鑑定という仕組みそのものの弱いところだと思います。
診断は、本人の訴えを土台にします。本人が嘘をつく前提では、できていない。
香深が見たのは症状ではなく、人の形でした。それは学問の外側にあるものです。
だから彼女が正しかったとも、言い切りにくい。たまたま当たった、という読み方も残ります。
小川香深は、何に気づいたのか
教授の藤代は、症状を見ました。
香深は、人を見ました。
妊娠している女性を刺し殺す。そういうことをする人間かどうか。症状の一致とは別の話です。
彼女は関係者を一人ずつ訪ねて、合わない部分を拾っていきます。
そして「工藤啓輔」に会い、この男は啓輔ではないと見抜きました。
面白いのは、香深が啓輔を追い詰める側ではないことです。
彼女が公開の鑑定を申請したのは、啓輔には正常な判断力があると証明するためでした。
つまり、彼を三十九条から引きずり出した。
罰を受けさせるために。
それは啓輔の望みでもあったはずです。この二人は、途中から同じ方向を向いています。
遺族は、どこに置かれるのか
三十九条が適用されると、裁判は終わります。
罰がないということは、判決文も出ないということです。
何があったのか、なぜそうなったのか、公の記録として残らない。
遺族が受け取るのは、不起訴という紙だけになります。
啓輔が欲しかったのは、たぶん刑罰そのものではありません。
妹の死が、誰かの口から正式に語られる場所です。
彼が法廷にこだわったのは、そこだと思っています。
タイトルが数字なのは、なぜか
『39 刑法第三十九条』。
条文の番号が、そのまま題名になっています。
人の名前でも、事件の名前でもありません。
この映画の主役は、人ではなく条文だということだと思います。
啓輔も、香深も、藤代も、長村も、全員がこの二行に動かされています。誰かが悪いという話にならないのは、そのためです。
数字には顔がありません。
顔のないものが人を裁いている。その居心地の悪さが、題名の時点で出ています。
『火車』『砂の器』との違い
名前を捨てた人の話は、ほかにもあります。
『ゼロの焦点』の室田佐知子は、過去を隠しました。
『砂の器』の和賀英良は、生まれを捨てました。
『火車』の新城喬子は、生きるために他人を手に入れました。
三人とも、見つからないために名前を変えています。
工藤啓輔だけが違います。
彼は見つかるために名前を変えました。
逃げるのではなく、法廷に立つために。
同じ「戸籍を乗っ取る」でも、向きが正反対です。
この映画を観たあとに、気をつけたいこと
ここは、はっきり書いておきます。
この映画に出てくるのは、多重人格を装った人です。本当に心を病んでいる人ではありません。
だからこの話を、そのまま現実の三十九条の話に持っていくと、おかしくなります。
実際の精神鑑定で詐病が通る例が、どれくらいあるのか。私は数字を持っていません。持っていないので、多いとも少ないとも書きません。
ただ、ひとつだけ言えることがあります。
この映画が怖がらせているのは「心を病んだ人」ではなく、心を病んだふりができる人です。
この二つを混ぜてしまうと、本当に助けが必要な人の居場所が狭くなります。
映画は問いを投げているだけで、答えは出していません。
三十九条をなくせ、とも言っていない。
その宙ぶらりんのまま終わるところが、この作品のいちばん誠実な部分だと思っています。
あの映画から二十五年、法律は変わった
映画は一九九九年です。あのあと、いくつも動きました。
参考までに、実際にあったことを並べます。加害者の名前は書きません。少年事件は法律で実名の報道が禁じられていますし、名前を知っても何も分からないので。
私は法律の専門家ではありません。公表されている事実だけを、そのまま書きます。
一九九七年・神戸|十四歳が五人を襲った
兵庫県神戸市で、中学三年生だった十四歳が小学生五人を襲い、二人が亡くなりました。
当時、刑事処分を受けられるのは十六歳からでした。この少年は家庭裁判所の手続きに進みます。
この事件をきっかけに、二〇〇〇年の少年法改正で、刑事処分が可能な年齢が十四歳まで下がりました。
映画の畑田修は、十五歳です。いまの法律なら、刑事裁判を受けうる年齢です。
一九九九年・山口県光市|十八歳と一か月
十八歳と一か月の少年が、母親と生後十一か月の子どもを殺しました。
一審も二審も、無期懲役でした。
最高裁が二〇〇六年にそれを破棄して差し戻し、二〇一二年二月、死刑が確定しています。
事件から十三年かかりました。
二〇〇五年・医療観察法|ここが一番大きい
この映画にとって、決定的に変わったのはここです。
二〇〇三年に成立し、二〇〇五年七月に施行された「医療観察法」。正式には長い名前なので略します。
殺人、放火、強盗などの重い事件で、心神喪失や心神耗弱を理由に不起訴・無罪になった人について、裁判所が入院か通院かを決める制度です。
それまでは、罪に問えないと分かった時点で、話が司法から医療へ移っていました。あとは病院の判断になる。
つまり映画の畑田修が「罰を受けないまま社会に戻った」のは、当時の現実でした。
いまは、同じことは起きにくくなっています。
二〇二二年・特定少年
二〇二二年四月、十八歳と十九歳が「特定少年」になりました。
家庭裁判所から検察官に送る対象が広がり、起訴されたあとは実名の報道ができるようになっています。
では、何が解決したのか
並べてみて、思うことがあります。
法律は、二十五年でかなり動きました。年齢は下がり、量刑は重くなり、名前も出るようになった。
でも工藤啓輔が欲しかったものは、そこにあったのでしょうか。
彼が怒っていたのは、刑が軽いことではありません。妹の死が、公の場で一度も語られないまま終わったことです。
医療観察法ができて、入院や通院が裁判所の判断になりました。これは大きい。
ただ、やはり判決文は出ません。
何があったのか、なぜそうなったのか。遺族が受け取る紙は、いまもほとんど増えていません。
いくつか、答えの出ない問いを置いておきます。
十四歳と十五歳のあいだに、何があるのでしょうか。二〇〇〇年の改正で、線は十六から十四に動きました。動かせる線だったということです。では、いまの十四はどこから来たのか。
罰を受けることと、治療を受けること。遺族にとって、この二つは同じでしょうか。どちらも「社会から離れる」という点では似ています。でも、まったく違う気もします。
もしあなたが遺族なら、何がいちばん欲しいですか。刑の重さでしょうか。それとも、何が起きたのかの説明でしょうか。
私は、この三つに答えを持っていません。
映画も答えを出していません。二行の条文を二時間かけて開いて見せて、そのまま終わります。
たぶん、それでいいのだと思います。簡単に答えが出る話なら、二十五年も揉めていません。
もし自分が、あの席に座っていたら
いまは裁判員制度があります。
呼ばれれば、普通に暮らしている人が、責任能力を判断する席に座ります。
その席で、専門家が「この人は犯行時、善悪の判断ができませんでした」と言ったとして、違うと言えるかどうか。
私は、言えないと思います。
この映画で違うと言ったのは、鑑定の助手でした。中にいた人です。
外から見ている私たちには、材料がありません。
三十九条をどう思うかという話の前に、判断する材料が誰にもないという事実のほうが、たぶん重いです。
この映画を観たあと、しばらくそのことを考えていました。
森田芳光が選んだ色
画面がずっと、くすんでいます。
銀残しという現像の仕方で、黒が沈んで、色が抜けて見えます。
法廷も、取調室も、鑑定室も、同じ重さの灰色になる。
この映画には、はっきりした悪人の顔が出てきません。画面がそれを許していない、という感じがします。
第四十九回ベルリン国際映画祭に出品されています。日本アカデミー賞では鈴木京香さんが優秀主演女優賞、脚本の大森寿美男さんも受賞しました。
いま観ると、もっと重い
一九九九年の映画です。
当時と比べて変わったのは、裁判員制度ができたことです。普通に暮らしている人が、責任能力を判断する席に座るようになりました。
もうひとつ。事件が起きるたびに、「三十九条」という言葉がすぐ画面に出るようになりました。
出るのは言葉だけで、中身の説明はほとんどありません。
二行の条文が、二文字の記号みたいに使われている。
この映画がやろうとしたのは、たぶんその逆です。二行を、二時間かけて開いて見せた。

本当に裁かれたのは誰か
最後に残る問いは、これだと思います。
畑田修は、もう死んでいます。裁けません。
工藤啓輔は、法廷に立ちました。でも彼が有罪になったところで、三十九条は一文字も変わりません。
変わったのは、あの場にいた人たちの頭の中だけです。
藤代は、自分の鑑定を疑うことになりました。長村は、自分の請求が何を動かしたかを知りました。香深は、人を助けるつもりで、人を罰する側に回りました。
全員が、少しずつ傷を負って終わります。
誰も勝っていません。
それでも、妹の名前が一度だけ公の場で読み上げられた。
八年かけてやったことの結果が、それだけだったとしても、彼にとっては足りていたのかもしれません。
曲に込めたこと
曲は「心の法廷」といいます。
啓輔の側から作りました。
叫ばせていません。叫ぶ人は、八年も黙っていられないので。
歌詞では、妹のことを一度も名前で呼んでいません。呼べなかったんだと思います。
終わりのほうで、裁かれたいのは誰なのか、という線が一度だけ出てきます。そこだけ、音を薄くしました。
おわりに
妹を殺した男は、罰を受けませんでした。
兄は、八年かけて別人になり、同じ条文の前に立ちました。
この話のいちばん苦いところは、彼が勝ったか負けたか、最後まではっきりしないことだと思います。
法律は変わっていない。妹も戻ってこない。
ただ、あの法廷に座っていた人たちは、二行の条文を自分の頭で考えることになりました。
それが届いたと言えるのかどうかは、観た人が決めることだと思います。
名前と過去をめぐる考察記事
ほかにもこういう作品の考察を書いています。
- 『火車』(宮部みゆき)——新城喬子はなぜ、人の名前が必要だったのか
- 『砂の器』(松本清張)——和賀英良はなぜ恩人を殺したのか
- 『ゼロの焦点』(松本清張)——室田佐知子はなぜ過去を隠したのか
- 『白夜行』(東野圭吾)——雪穂は本当に冷たい女だったのか
- 『黒革の手帖』(松本清張)——原口元子は悪人なのか
- 『手紙』(東野圭吾)——直貴はなぜ兄を捨てたのか
- 『正体』——冤罪の話として読むと見えてくるもの
- 『虚ろな十字架』(東野圭吾)——死刑は誰を救うのか
- 『太陽を盗んだ男』——名前で呼ばれない男が、自分を「9番」と名づけた
音羽(Otowa)について
小説や映画を読んで、頭から離れなくなったものを曲にしています。このブログの考察は、その曲の裏側です。
これまでに作った曲はYouTubeに置いています。ミステリーから絵本まで、いまのところ48本ほど。
チャンネル登録しておいてもらえると、新しい曲ができたときに届きます。よかったら。
