『夜明けの街で』渡部はなぜ一線を越えたのか、音羽が考える、誰にでもある弱さと代償

物語の考察

『夜明けの街で』を読み終えたとき、正直、少し嫌な気持ちになりました。

主人公の渡部がしていることは、擁護のしようがない不倫です。妻がいて、娘がいて、それでも彼は一線を越えてしまう。読んでいて、何度も「やめておけばいいのに」と思いました。

それなのに、彼を突き放して読み切ることができないのです。理由は、たぶんひとつ。彼が、あまりにも「普通の人」だからだと思います。

この記事では、この物語を主人公・渡部の側から考えてみたいと思います。ただ、これは原作の解説でも、不倫を肯定する話でもありません。あくまで、音羽が想像した渡部です。彼はどこで踏み外し、何を失ったのか。わたしなりに考えたことを書いてみます。

簡単に紹介しておくと、『夜明けの街で』は東野圭吾さんが2007年に発表した長編小説です。2011年には岸谷五朗さん、深田恭子さん出演で映画化もされました。

東野作品の中では、殺人トリックを解く純粋なミステリーというより、一人の男の心の内側をたどる小説という色が濃い作品です。だからこそ、読んでいるあいだ、ずっと居心地の悪さがつきまといます。

※物語の展開と結末に触れています。これから読む予定の方は、ご注意ください。


あらすじ——バッティングセンターで会った二人と、十五年前の事件

『夜明けの街で』は、東野圭吾が『野性時代』に2004年9月号から2007年4月号まで連載した長編です。単行本は2007年6月、角川書店から出ています。

主人公は渡部(わたべ)。ゼネコンの電気部門の主任で、妻の有美子と娘との三人暮らし。絵に描いたような、普通の家庭です。

彼は不倫を軽蔑していました。そういうことをする人間は、頭が悪いんだと本気で思っていた。

その渡部が、会社に来ていた派遣社員の仲西秋葉(なかにし あきは)と、バッティングセンターで顔を合わせます。

最初は何でもありませんでした。仕事の話をして、たまに飲んで、それだけです。

それが少しずつ、少しずつ、形を変えていきます。

やがて渡部は、秋葉がある事件を抱えていることを知ります。

十五年前、秋葉の父の愛人だった本条麗子という女性が、仲西家で死んでいた。犯人はいまも捕まっていません。そして当時高校生だった秋葉が、容疑者のひとりとして見られていた。

事件には時効があります。その日は3月31日。

渡部は、信じたいと思います。この人がそんなことをするはずがない、と。

でも同時に、こうも考えてしまう。もし本当にやっていたとしたら——時効まで、あと何日だろう、と。

不倫の話として読み始めた物語が、ここから別の顔を見せはじめます。

※この記事は、後半で結末に触れます。該当する見出しの手前に改めて断りを入れていますので、未読の方はそこで止めてください。

登場人物と読み方

名前読み方立場
渡部わたべゼネコン勤務の主任。妻と娘がいる
渡部有美子わたべ ゆみこ渡部の妻
仲西秋葉なかにし あきは渡部の勤務先の派遣社員
本条麗子ほんじょう れいこ十五年前に死亡した、秋葉の父の愛人

「仲西秋葉」はなかにし あきはです。「あきば」ではありません。

「不倫する奴はバカだ」と言っていた男

渡部は、もともと不倫を軽蔑していた人でした。

職場でそういう噂を聞けば、心の中で思っていたはずです。何をやっているんだ、失うもののほうが大きいのに、と。妻がいて、娘がいて、仕事もそれなりに順調。自分は、そちら側の人間ではないと信じていた。

わたしがこの設定を上手いと思うのは、人がいちばん危ういのは「自分は大丈夫だ」と思っているときだ、という点を突いているからです。

人を軽蔑しているとき、人は自分の中の弱さを点検しなくなります。まさか自分が、と思っている人ほど、足元は無防備になっている。渡部が強い人間だったのではなく、ただ、まだ試されていなかっただけなのでしょう。

わたし自身、この作品を読むまでは、不倫の話を「自分には関係のない世界の話」として眺めていた気がします。

でも、渡部の内面を追っていくうちに、その線引きが揺らいでくる。彼は特別に意志が弱いわけでも、快楽に流されやすい性格でもない。少なくとも渡部自身は、自分を常識的な人間だと思っていました。それでも、越えてしまった。

この物語が読者に突きつけてくるのは、たぶん「自分は違う」という確信そのものの脆さなのだと思います。

悪いことは、何ひとつ起きていなかった

朝、玄関を出る会社員の男と、奥の台所に立つ妻——東野圭吾『夜明けの街で』考察イメージ
この朝はまだ、何も起きていない

この物語がリアルなのは、渡部の家庭が壊れていないことです。

妻が冷たいわけでも、娘との関係が悪いわけでもない。ただ、長く一緒にいれば、会話は用件だけになる。夫婦は同志のようになり、恋人ではなくなる。それは自然なことで、不幸でもありません。

でも、その「なんでもない日常」の中に、いつのまにか小さなすきまができていた。渡部自身も気づいていなかったであろう、その空白に、彼女の優しい声が入り込んでくる。

彼が惹かれたのは、たぶん容姿だけではなかったと思います。話を聞いてもらえること。「お父さん」ではなく、一人の男として見られること。家庭に何かが欠けていたというより、外から向けられる関心のほうに、彼が別の価値を感じてしまったのだと思います。

わたしが怖いと感じたのは、そこに大きな不幸も、劇的な出会いもないことです。ごく普通の毎日の中に、静かに入り口があった。それが、この物語のいちばん恐ろしいところだと思います。

もうひとつ、相手の女性の側にも事情があることが、事態をややこしくしていきます。

渡部は、彼女を「守ってやりたい」と思ってしまう。けれど、その気持ちには危うさがあります。人は「誰かを助けている」と思っているとき、自分の欲望をいちばん都合よく正当化できてしまうからです。

善意のつもりが、実は自分の願望だった——これは不倫に限らず、人間関係のいろいろな場面で起きることかもしれません。

▼ この物語の想いを歌にしたオリジナル曲は、こちらからご覧いただけます。

線は、ある日いきなり現れるわけではない

渡部が一線を越えるまでの過程を読んでいると、何度も「ここで引き返せたのに」と思う場面があります。

連絡を返さない。誘いを断る。二人きりにならない。どれも、やろうと思えばできたはずのことです。

でも、彼はそうしなかった。「一度だけなら」「誰にも分からない」——そんな小さな言い訳を、いくつも積み上げていく。

人が道を外れるのは、強い意志で悪を選ぶからではないのだと思います。ほんの少しの弱さに、何度も目をつぶるから。決定的な瞬間には、大した理由なんてないのでしょう。

深夜のオフィスに離れて座る男女二人だけ——東野圭吾『夜明けの街で』
線は、この部屋のどこかにあった

そして、こういう選択は、あとから振り返ってはじめて「あそこが分岐点だった」と分かるものです。渦中にいるときは、自分がどこに向かっているのか、たいてい見えていない。

だから彼は「誘惑に負けた」というより、たぶん、自分で選び続けていたのです。認めたくなかっただけで。

そして、いちばん怖いのは「慣れ」だと思います。

最初は確かにあった罪悪感も、時間が経てば「いつもの重さ」に変わっていく。人の心は、どんな状況にも適応してしまう。その適応力は生きる力でもありますが、この物語では、それが破滅への滑り台になっていきます。

嘘は、次の嘘を呼ぶ

夜、自宅の玄関先でスマートフォンを見る男と、奥の明るいリビング——『夜明けの街で』
まだ、家に入れない

不倫の場面そのものより、わたしが読んでいてつらかったのは、家に帰ったあとの描写でした。

「おかえりなさい」と迎える妻。駆けてくる娘。何ひとつ変わらない、あたたかい風景。その中で、渡部だけが少しずつ影のように薄くなっていく。

笑いながら、心は別の場所にある。同じ食卓に座っているのに、自分だけがこの家の一員ではないような気がしてくる。——この感覚を、渡部は誰にも言えません。

嘘は、ひとつつくと、それを守るためにまた次の嘘が必要になります。残業だと言い、出張だと言い、記憶を整理しながら帰宅する。やがて、自分でも何が本当だったのか分からなくなる。

裏切っていたのは、妻だけではなかったのだと思います。彼は、自分自身を裏切っていた。嘘をつくたびに、自分で自分を削っていたのです。

特に印象に残るのは、家族と過ごしている時間に、心がそこにいない場面です。

娘の行事に付き添いながら、頭のどこかで携帯を気にしている。大切なはずの時間の中で、意識が半分どこかへ行ってしまう。わたしが想像したのは、そういう場面です。あんなに守りたかったはずの日常を、自分の手で薄めていることに、彼はどこかで気づいていたはずです。

信頼というのは、積み上げるのに何年もかかるのに、崩れるときは驚くほど静かで、あっけない。この物語は、その崩れ方を丁寧に見せてくれます。

※ここから先は、結末に触れます。

渡部の後悔を、夜明けの風景に重ねる

夜明けの東京のビル街に一人立つスーツの男の後ろ姿——東野圭吾『夜明けの街で』
夜が、明けてしまった

読み終えて、わたしは渡部が夜明けの街に取り残される光景を想像しました。

誰もいない道。白みはじめた空。街が新しい一日を始めようとしている、その真ん中で、彼だけが取り残されている。

そこで流れる涙があるとしたら、失恋の悲しみだけではないと思います。もっと大きいのは、自己嫌悪でしょう。

かつて自分がいちばん軽蔑していた「バカな人間」に、ほかでもない自分がなってしまった。あんなに確信していた「正しい自分」が、たった一人の優しい声で崩れてしまった。その事実に、ようやく正面から向き合わされたのです。

新聞配達のバイクの音、シャッターを開ける店主。世界は何事もなかったように動き出していく。自分の人生をこんなに揺らした出来事も、世界にとっては何でもない。——そういう孤独は、誰かに責められることよりも深いのではないかと思います。

そして、あの明け方に彼が考えたのは、たぶん「自分は本当は何が欲しかったのか」ということだったのではないでしょうか。

刺激でも、若さでも、恋のときめきでもなく——ただ「自分をちゃんと見てくれる誰か」が欲しかっただけなのかもしれない。だとしたら、それは、家の中にもあったはずのものです。

この気づきの遅さが、いちばん切ないところだと思います。

結末——十五年前、本当は何が起きていたのか

ここから、十五年前の事件の真相に触れます。

3月31日。時効が成立します。

その夜、渡部は仲西の家にいました。そこへ秋葉の父・仲西達彦と、叔母の浜崎妙子が現れます。

本当のことを話しはじめるのは、二人ではありません。秋葉のほうから、十五年前の出来事を突きつけていきます。

まず前提が違っていました。

本条麗子は、父の愛人ということにされていました。

不倫関係にあったのは、父と叔母の妙子です。妙子は、秋葉の母の妹でした。その関係を隠すための表向きの相手として、元秘書だった麗子が使われていたのです。

麗子は、その関係に気づきました。そして絶望して、自分で命を絶ちます。

遺体を見つけたのは、父と叔母でした。

二人は、秋葉がやったと思い込みます。

そして隠蔽にかかる。ナイフから指紋を拭き取り、ガラス戸の鍵を開けて外から強盗が入ったように見せかけ、秋葉には「死体を見て気を失った」と証言させた。

つまり——秋葉は、誰も殺していません。

でも彼女は、親が自分を犯人だと思い込んでいることを知っていました。知っていて、十五年間、何も言わなかった。

ここがこの小説のいちばん怖いところだと思います。

秋葉が黙っていたのは、怯えていたからではありません。

親に、罰を与え続けるためです。

「娘が人を殺したかもしれない」という疑いを、十五年、親に背負わせ続けた。自分が一言そう言えば終わるのに、言わなかった。

父と叔母が麗子を死に追いやったことへの、彼女なりの落とし前だったのだと思います。

そして渡部のことです。

秋葉は、渡部に本当のことを話したあと、去っていきます。そのとき彼女は、自分が渡部を利用していたという意味のことを口にします。時効まで味方でいてくれる誰かが必要だった、と。

渡部は、本気でした。人生を賭けるつもりだった。

でも相手にとって、自分は手段のひとつだった。

そして渡部は、家に帰ります。妻の有美子は、とっくに気づいていました。

この結末、読後感がとても悪いです。悪いのに、よくできている。

渡部は刑務所に入るわけでも、家庭を失うわけでもありません。表向き、彼の人生は続いていきます。

でも、戻ってきた場所はもう同じ場所ではない。妻は知っていて、黙っている。

罰は下りません。ただ、元には戻らない。

東野圭吾は、わかりやすい断罪をしませんでした。そのほうがずっと怖いことを、知っているからだと思います。

本気だったから、では済まない

よく「本気だったから仕方ない」という言葉を聞きます。

でも、気持ちが真剣だったかどうかは、傷つけられた人には何の関係もありません。真剣さは免罪符にはならない。むしろ本気であればあるほど、壊すものは大きくなります。

それに、渡部は相手の女性にも誠実ではなかったと思うのです。守れない未来をちらつかせ、決断を先延ばしにし続けた。相手のためだと言いながら、いちばん守っていたのは自分の立場だった。

誰かを傷つけないつもりで、結局、全員を傷つけてしまう。中途半端な優しさというのは、そういうものなのかもしれません。

この作品を読んでいると、「誠実さ」とは何なのかを考えさせられます。

気持ちに正直であることが誠実なのか。それとも、約束を守り続けることが誠実なのか。渡部は前者を選んでしまいましたが、その結果、彼は誰に対しても不誠実になってしまった。

自分の気持ちに正直でいることと、他人を裏切らないことは、必ずしも両立しないのだと思います。

この物語は、誰の話なのか

『夜明けの街で』が読む人をざわつかせるのは、渡部が特別に悪い人間ではないからだと思います。

まじめで、常識的で、不倫を軽蔑してさえいた、どこにでもいる会社員。だから読者は、彼を安全な場所から裁くことができません。「自分は絶対に大丈夫」と言い切れる人が、どれだけいるでしょうか。

東野圭吾さんは、渡部を大げさな悪人としては描きません。彼の言い訳も、迷いも、自己弁護も、痛いほど等身大です。読者は彼を軽蔑しようとして、いつのまにか自分の心を覗き込むことになる。

これは、東野作品に共通する特徴かもしれません。人を単純な善人と悪人に振り分けない。誰にでも言い分があり、誰にでも弱さがある。

『白夜行』の雪穂も、『秘密』の直子も、行為だけを見れば擁護できない選択をしています。それでも読者が彼らを簡単に突き放せないのは、行動や周囲との関係から、その事情を想像させられるからです。渡部もまた、その系譜にいる人物なのだと思います。

ちなみに、この作品にはミステリーとしての側面もあり、物語の背後には、ある未解決の事件が影を落としています。恋愛小説だと思って読み進めるうちに、少しずつ緊張が高まっていく。その構成の巧みさも見どころですが、この記事では、あくまで渡部の心の動きに絞って考えてみました。

失ったものの、ほとんどは目に見えない

この物語を読み終えて、いちばん考えたのは「代償」のことでした。

渡部が失ったものの多くは、目に見えないものです。わたしがここで考えたいのは、慰謝料や別居のような目に見える代償ではありません。彼が本当に失ったのは、家族から向けられていた無条件の信頼であり、自分自身を「まっとうな人間だ」と信じられる感覚でした。

それらは、お金でも時間でも、簡単には取り戻せません。

だからこの物語の教訓は、「バレるからやめておけ」ではないのだと思います。たとえ誰にも知られなかったとしても、自分の中で確実に何かが壊れていく。渡部が語り手であるこの小説は、その内側の崩壊を、静かに見せてくれます。

家庭というのは、あって当たり前になってしまうものです。

毎日「おかえりなさい」と言われることも、休日に家族で出かけることも、当たり前になれば、価値が見えなくなる。渡部がそれに気づいたのは、失ってからでした。

これは、不倫の話に限りません。健康も、親も、友人も、当たり前になったものほど、失うまで大きさが分からない。この物語は、そういう普遍的なことも、静かに教えてくれる気がします。

痛みを、未来へつれていく

物語の終わりで、渡部がすべてを反省できたのかは、わたしには分かりません。ただ、もう何もなかった頃には戻れないのだと思います。

忘れないでいることが、せめてもの誠実さなのだと思います。「もう終わったこと」にして、なかったことにしてしまえば、人は同じ場所で同じ間違いを繰り返してしまうからです。

もし、この文章を読んでいる誰かが、今まさにあの一歩の手前に立っているのだとしたら。ひとつだけ、伝えたいことがあります。踏み越えるのは一瞬ですが、その先の道は、とても長い。そして、失ってから気づくものの大きさは、想像しているよりはるかに大きい。

そして、もしすでに越えてしまった人がいるのなら。過去は変えられなくても、これからの生き方は変えられます。痛みは、罰であると同時に、二度と繰り返さないための道しるべにもなり得るのだと思います。

『夜明けの街で』は、決して後味のいい小説ではありません。でも、読み終えたあとに残る、あのざらついた感触こそが、この作品の価値なのだと思います。

楽しく読める本ではないけれど、心のどこかに置いておきたくなる一冊。もし未読の方がいれば、ぜひ一度、渡部の一人称に付き合ってみてください。

人の弱さと、その代償。夜明けの街に立つ一人の男の後悔を、音羽のオリジナル曲とあわせて感じていただけたら嬉しいです。

▼ 『夜明けの街で』の世界を描いたオリジナル曲(再掲)

2011年の映画版——岸谷五朗と深田恭子

『夜明けの街で』は、2011年10月8日に映画が公開されています。

  • 監督:若松節朗
  • 渡部和也:岸谷五朗
  • 仲西秋葉:深田恭子
  • 配給:角川映画

原作が出てから4年後の映画化です。

なお、映画では主人公の名前が「渡部和也」になっています。

ひとつ知っておいてほしいのは、原作と映画では、終わったあとの手触りが違うということです。

事件の真相は同じですが、最後に渡部が置かれる場所の描き方が変わります。映画のほうが、観終わったあとに残るものが少しだけ明確です。

どちらが良いという話ではありません。ただ、映画で知った人が原作を読むと、たぶん「こんなに後味が悪かったのか」と思います。

もう一冊の東野圭吾——『殺人の門』は、線を越えられなかった男の話です

渡部は線を越えました。では、越えられなかった人はどうなるのか。それを書いたのが、同じ東野圭吾の『殺人の門』です。

主人公の田島は、倉持という男に人生をめちゃくちゃにされ続けます。何度も殺意を抱きながら、そのたびに手前で止まります。

二人とも、立っている場所は同じです。越えてはいけない線の、すぐ手前。

渡部は越えて、失いました。田島は越えないまま、何十年も立ち続けます。

読み終わったあとに残るものが、まるで違います。渡部には、失ったという事実がある。田島の側には、殺意を抱き続けるなかで積み重なった、別の傷があります。

越えなければよかった、と渡部は思ったでしょう。でも『殺人の門』を読むと、越えないこともまた、人を壊すのだと分かります。

渡部の弱さが他人事に思えなかった人には、田島のほうもすすめます。→ 『殺人の門』田島はなぜ、あの男を殺せなかったのか

東野圭吾作品の考察記事

音羽のブログでは、東野圭吾さんの作品をほかにも書いています。

よかったら、あわせて読んでみてください。


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→ これまでに考察した作品の一覧はこちら

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