三人が、三つの違うことを言います。
しかも全員が「自分が殺した」と言う。かばい合っているわけでもない。ただ、話が合わない。
芥川龍之介の『藪の中』です。百年以上前の短編なのに、いまSNSで毎日見ている光景とそっくりでした。
『藪の中』はどういう話か——七人が話して、真相が消える
藪の中で侍が死んでいた。話の骨はそれだけです。
小説は、事件について話した七人の供述をただ並べてあります。地の文がありません。説明してくれる語り手がいない。
七人は、木樵り(きこり)、旅法師(たびほうし)、放免(ほうめん)、媼(おうな)、そして当事者の三人。
当事者というのは、盗人の多襄丸(たじょうまる)、妻の真砂(まさご)、殺された夫の金沢武弘(かなざわの たけひろ)です。
武弘は死んでいるので、巫女の口を借りて話します。
この三人が、三つとも違うことを言う。
そして三人とも、自分が殺したと言うんです。
発表は一九二二年。芥川龍之介が亡くなる五年前です。
平安時代が舞台で、検非違使(けびいし)という役人が取り調べをしています。いまで言う警察と裁判所を合わせたような役目です。
読み始めると、いきなり供述から入るので面食らいます。あらすじの説明が一行もない。
でも読んでいるうちに慣れます。というより、慣れるしかない。

登場人物の読み方
名前が読みにくいので、先にまとめておきます。
- 多襄丸(たじょうまる)——盗人。事件の中心にいる男
- 真砂(まさご)——武弘の妻
- 金沢武弘(かなざわの たけひろ)——藪の中で死んでいた侍
- 木樵り(きこり)——死体の第一発見者
- 旅法師(たびほうし)——前の日に三人を見かけた僧
- 放免(ほうめん)——多襄丸を捕らえた役人
- 媼(おうな)——真砂の母
- 検非違使(けびいし)——取り調べをする役人。いまの警察と裁判所を合わせたような役目
この七人が、順番に話します。事件を見ていない人の供述も混ざっています。
多襄丸(たじょうまる)の話——正々堂々、太刀を合わせて勝った
多襄丸は捕まって、あっさり認めます。おれが殺した、と。
ただ、話し方が妙なんです。
妻を手に入れたあと、縛ったままの夫を殺すこともできた。でもそれはしなかった。縄を解いて、太刀で二十三合も打ち合って、それから勝った。
自分でそう言います。
盗人が、わざわざ卑怯じゃなかったと言い張っている。
ここで私は引っかかりました。殺しは認めているのに、やり方だけは譲らない。
捕まった時点で死ぬのは決まっています。それなのに、どう見られるかを気にしている。
この人が守りたいのは命じゃないんだな、と思いました。
もうひとつ気になるのは、多襄丸が真砂のことをやたらと褒めることです。
気の強い女だった、こんな女は見たことがない、と。
自分が奪った相手を、価値のあるものとして語っている。
そうしないと、自分のやったことが安っぽくなるからだと思います。
真砂(まさご)の話——わたしが、夫を刺した
次に真砂が出てきます。清水寺で懺悔する形です。
彼女の話は、まるきり違います。
多襄丸は去った。残されたのは、縛られた夫と自分だけ。
夫を見ると、その目に軽蔑があった。
真砂はそれに耐えられなくなって、小刀で夫を刺します。そのあと自分も死のうとしたけれど、死にきれなかった。
読んでいて、この話がいちばん苦しいです。
襲われたことより、夫の目のほうが刺さった、と言っているので。
助けてくれなかったことを責めているんじゃない。見られたことのほうを、彼女は殺意に変えています。
この場面の真砂は、多襄丸にも夫にも助けを求めていません。
自分で決めて、自分で刺した、と言う。
被害者でいることを、彼女は自分に許していないように見えます。
真砂は、なぜ生き残ったのか
真砂の証言には、どうしても引っかかる部分があります。
夫を刺したあと、自分も死のうとした。でも死ねなかった。
喉を突こうとした、山の池に身を投げようとした、いろいろ試したけれど駄目だった、と話します。
この「駄目だった」の並べ方が、私にはどうも言い訳っぽく聞こえます。
本当に死ぬ気なら、一度で終わっているはずです。
でも、だからといって彼女が嘘つきだとも思いません。
死のうとしたけど死ねなかった。この気持ちのほうが、たぶん本当に近い。
人は、本気で死のうとしても体が止まることがあります。
そのとき人は、自分を許すために「試したけど駄目だった」という物語を作るんだと思います。
武弘(たけひろ)の話——おれは、自分で死んだ
最後に、死んだ武弘が語ります。巫女の口を借りて。
武弘の話では、真砂は多襄丸に「この人を殺して」と言ったことになっています。
その言葉には多襄丸すら驚いて、真砂を蹴り倒す。
真砂は逃げる。多襄丸も縄を切って去っていく。
ひとり残された武弘は、落ちていた小刀を拾って、自分の胸を刺した。
誰にも殺されていない、と死霊は言います。
死んでまで、この人は自分で終わったことにしたい。
死霊の語りには、もうひとつ妙なところがあります。
武弘は、誰かが自分の胸から小刀を抜いた、と言うんです。
刺したあと、意識が薄れていく中で、誰かの手が来た。
その誰かが誰なのかは、最後まで出てきません。
ここだけ、急に別の人の気配がする。
三人とも、自分が主役になっている
並べてみると、共通点が見えてきます。
多襄丸は「堂々と戦って勝った男」。
真砂は「辱めを受けて、夫を殺して、自分も死のうとした女」。
武弘は「妻に裏切られて、自分で死を選んだ侍」。
全員が、自分の話の中では格好がついています。
殺人を認めているのに、全員がいちばんきれいな役をやっている。
ここに気づいたとき、私はぞっとしました。
嘘をついて逃げようとしているんじゃない。嘘をついて、自分を守ろうとしている。
守っているのは命じゃなくて、自分のかたちのほうです。
もうひとつ言うと、三人の話は細かい部分では合っています。
多襄丸が真砂を襲ったこと。武弘が縛られたこと。真砂が先にその場を離れたこと。
大枠は同じなんです。食い違うのは、最後の一撃を誰が加えたかだけ。
全部が違うなら、誰かが完全に嘘をついていることになります。でもそうじゃない。
同じ出来事を見ていて、最後のところだけ三通りになる。
だから余計に気持ちが悪いんだと思います。
誰も得をしない嘘
普通、嘘は得をするためにつきます。
でもこの三人は違います。
多襄丸は認めれば死刑です。真砂も武弘も、自分が悪いという話をしている。
罪を軽くしようとしていない。
これが『藪の中』のいちばん不気味なところだと思います。
人は、損をしてでも自分の物語を守ろうとする。
得のための嘘は、まだ分かりやすい。損してまでつく嘘のほうが、正体がつかめません。
三人が守ろうとしたもの
三人が何を守ったのかを、順番に考えてみます。
多襄丸が守ったのは、盗人としての誇りです。人は殺すが、卑怯はしない。それが彼の中の自分です。
真砂が守ったのは、女としての筋みたいなものだと思います。辱められて黙っていた女にはなりたくない。だから刺した、と言う。
武弘が守ったのは、侍としての体裁です。妻に見捨てられ、盗人に負けた男では終われない。だから自分で死んだことにする。
三人とも、社会が決めた役に自分を合わせています。
盗人らしく、女らしく、侍らしく。
そう考えると、この三人は嘘つきというより、役から降りられなかった人たちに見えてきます。
降りたら、自分が何者でもなくなるからです。
小刀(こがたな)は、どこへ行ったのか
ひとつだけ、はっきりした手がかりがあります。
第一発見者の木樵りは、現場に縄が一筋と櫛が一つ落ちていた、と言っています。
小刀は、ありません。
でも真砂の話でも武弘の話でも、凶器は小刀です。
つまり、誰かが持ち去っている。
いちばん怪しいのは、最初に現場に入った人です。
木樵りは供述の中で、小刀のことを一言も言いません。
言わないことが、いちばん雄弁だと思います。
櫛が落ちていた、というのも気になります。
櫛は真砂のものです。逃げるときに落としたのか、争ったときに落ちたのか。
小説はそれも書きません。落ちていた、とだけ。

木樵り(きこり)は、証言者のふりをしている
木樵りは当事者ではありません。だから誰も疑わない。
三人の話ばかり読んでいると、外側の四人は背景に見えます。
でも、その背景の中にひとつだけ嘘が混じっている。
そう思って読み返すと、この小説は一気に怖くなります。
事件と関係のない人が、静かに物を持ち去って、何食わぬ顔で証言台に立っている。
嘘をつくのは、渦の中にいる人だけじゃない。
もちろん、これは私の読みです。木樵りは何もしていないかもしれない。
でも、そう読める余地を芥川は残しています。
わざわざ「縄が一筋と櫛が一つ」と書いたのに、小刀のことは書かない。
こういうところを見ると、この人は相当に意地が悪いと思います。
芥川龍之介は、なぜ答えを書かなかったのか
答えは書かれていません。最後まで。
読者に推理させるための仕掛けだ、という読み方もできます。
でも私はそう思っていません。
もし答えがあるなら、芥川はどこかに鍵を置いたはずです。でも置いていない。
置いていないということは、当てさせることが目的じゃなかった。
この小説が見せたかったのは、真相ではなくて、人は真相を語れないということのほうだと思います。
もしかしたら、誰も嘘をついていないのかもしれません。
三人とも、自分の中では本当のことを言っている。
それが一番怖い可能性です。
もうひとつ。この小説には、事件を見ていない人の証言も入っています。
旅法師は、前の日に三人を見かけただけ。媼にいたっては、娘と婿の人柄を話しているだけです。
事件とは関係ない話が、供述として並んでいる。
でも読んでいると、それも何かの手がかりに見えてきます。
関係ない情報まで意味があるように見えてしまう。人が真相を探すときって、たぶんこうなります。
『羅生門(らしょうもん)』という映画のこと
黒澤明の『羅生門』は、この『藪の中』が原作です。
タイトルは芥川の別の短編から取っていて、中身は藪の中。ややこしいんですが、そうなっています。
一九五一年にヴェネツィアで金獅子賞を取って、日本映画が世界に知られるきっかけになりました。
映画では、木樵りの役がずっと大きくなっています。
映画を先に見てから原作を読むと、木樵りが気になって仕方なくなると思います。
原作の『羅生門』は、下人が老婆から着物を剥いで去っていく話です。
事件の話でもないし、証言も出てきません。
それでも映画のタイトルに使われたのは、あの門の絵が強かったからだと思います。
ちなみに、芥川の『羅生門』のほうは、音羽ですでに曲にしています。
あちらは、飢えた下人(げにん)が羅生門の上で老婆に出くわす話です。老婆は、転がっている死体の髪を抜いていた。
下人はそれを責めます。そして責めた直後に、老婆の着物を剥いで、闇の中へ消えていく。
悪いことをしている人を咎めた人間が、そのまま同じ側に落ちる。三十分もかからずに読める短編なのに、後味だけ何日も残ります。
『藪の中』と並べると、同じ芥川でも角度が違うのがよく分かります。
羅生門は「人はどこで線を越えるか」の話。藪の中は「越えたあと、それをどう語るか」の話です。
順番に聴いてもらうと、たぶん面白いと思います。
「藪の中」という言葉になった
いまでは、真相がわからないことを「藪の中」と言います。
小説のタイトルが、そのまま日本語になった。
こういう作品は、そんなに多くありません。
百年前の短編が、いまも普通の会話の中で使われている。
それだけこの状況に、誰でも身に覚えがあるということだと思います。
ちなみに映画の『羅生門』には、原作にない結末がついています。
黒澤明は、あのままでは終われなかったんだと思います。
小説のほうは、終わらせずに終わる。
どちらが good というより、小説と映画では耐えられる後味が違う、ということなんでしょう。
いまの藪の中
同じことが、毎日起きています。
ひとつの出来事について、三人が三つのことを言う。全員が自分の側から話す。全員が、自分の中では本当のことを言っている。
SNSを見ていると、これが延々と繰り返されています。
どちらが嘘つきかを決めたくなるけれど、たぶん両方とも本当のことを言っている。
私はこの小説を読んでから、人の話を聞くときに「この人の話の中で、この人はどんな役をやっているか」を見るようになりました。
だいたい、いい役をやっています。
私もそうです。
会議でも、家の中でも起きます。
同じ場にいた二人が、まったく違う記憶を持っている。どちらも嘘をついていない。
そのとき人は「相手が間違っている」と思います。私もそう思います。
でも『藪の中』を読んだあとだと、そこで一回止まれるようになります。
止まったからといって解決はしません。ただ、怒鳴らずには済みます。
曲に込めたこと
今回の曲は、最初は三人ぶん作ろうとしました。でもやめました。
三つ並べると、結局「どれが本当か」を当てる曲になってしまう。この作品はそういう話じゃない。
なので、一本の曲の中で同じメロディを三回、違う歌い方で繰り返す形にしました。
同じ音なのに、歌い方で意味が変わる。それがいちばん近いと思ったので。
最後は結論を置いていません。置いたら嘘になるので。
歌詞には、誰が犯人かを示す言葉をひとつも入れていません。
入れた瞬間に、この曲は答え合わせになってしまうので。
おわりに
『藪の中』は短いです。文庫で三十ページもありません。青空文庫でも読めます。
でも読み終わったあと、すぐには次の本に行けない。
誰が殺したのか。読んでいるあいだは、それを考えます。
でも本を閉じたあとに残るのは、もっと嫌なほうの問いです。
自分がふだん人に話していることは、どこまで本当なんだろう。
私は、あんまり自信がありません。
文学作品の考察記事
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音羽(Otowa)について
小説や映画を読んで、頭から離れなくなったものを曲にしています。できた曲はYouTubeに置いています。
