『天空の城ラピュタ』シータはなぜ滅びの言葉を選べたのか、大人になって観返した話

物語の考察

『天空の城ラピュタ』の話をします。

何回観たか、もうわかりません。金曜ロードショーでやるたびに、なんだかんだ最後まで観てしまう。バルスのところだけは、いまだに息を止めてしまいます。

で、今回はシータのことを書きたいんです。

パズーじゃなくて、シータ。

子どものころは、正直あまり気にしていませんでした。かわいい女の子だな、くらいで。

大人になって観返したら、この子がずっとひとりで何かを背負っていたことに、やっと気づきました。

以下はぜんぶ、音羽の勝手な読み方です。正解を書くつもりはありません。

いちおう、おさらいだけ。

『天空の城ラピュタ』は1986年公開のスタジオジブリ作品。宮崎駿監督の長編で、スタジオジブリとしては第一作にあたります。

鉱山町で働く少年パズーが、空から落ちてきた少女シータを受けとめるところから話が動きます。

シータが空から落ちても助かったのは、飛行石が光って、落下をゆるめたからです。

でもこの記事で考えたいのは、その先です。なぜ彼女は最後に「バルス」を選び、ラピュタの力を自分から手放したのか。

シータが首から下げている飛行石を狙って、軍のムスカと、ドーラ一家の空賊が追いかけてくる。二人は逃げながら、伝説の島ラピュタを目指すことになります。

公開から四十年近く経つのに、いまだにテレビでやると盛り上がる。すごい映画です。

あと、みんなで一斉にバルスと打つあれ。

あれも含めて、この映画はもう文化になってしまった感があります。

※内容に触れています。未見の方はご注意ください。

シータが落ちてくるシーン——なぜ助かったのか

この映画でいちばん有名な場面かもしれません。

夜の空から、女の子がゆっくり降りてくる。

パズーがそれを、両手で受け止めます。

なぜ助かったのか、という疑問をよく見かけます。

答えは、飛行石です。

シータが首から下げていた石が光って、落下の速さを殺している。

だから、あんなにゆっくり降りてきます。

本人は気を失っているので、自分では何もしていません。

石が、勝手に持ち主を守った形です。

ここで大事なのは、その理屈のほうではない気がしています。

あの場面が忘れられないのは、ゆっくりだからです。

人が空から落ちてくるというのは、本来なら大事故の場面です。

でも、あそこには音も衝撃もありません。

静かで、きれいで、少し不思議。

危機なのに、美しい。

この落差が、この映画全体の空気を最初の数分で決めています。

もうひとつ。

パズーは、誰が落ちてきたのかを知りません。

王家の子だとも、追われている子だとも知らない。

それでも、受け止めた。

あの子にとっては、目の前に人が落ちてきたから手を出した、それだけです。

この物語は、そこから始まります。

条件をつけずに誰かを受け止める、という行為から。

あとで何度も出てくるパズーの誠実さは、全部この一場面に入っています。

あの子は、ずっと追われていた

物語はいきなり飛行船から始まります。シータが落ちてくるところ。

あの時点で、彼女はもう誘拐されたあとなんですよね。

よく考えると、けっこうすごい状況です。

軍に捕まり、空賊にも追われる。頼れる大人はひとりもいない。

それでシータは、パニックにならない。

泣きわめかないし、誰かにすがりもしない。

あれは強いんじゃなくて、そうするしかなかったんだと思います。

助けてくれる人がいない環境にいると、人は取り乱さなくなります。

取り乱しても、誰も来ないから。

シータの落ち着きって、そういう種類のものに見えるんです。

だから、パズーの家で朝ごはんを食べているときの、ちょっとほっとした顔。

あそこがすごくいい。

やっと十三歳の顔に戻れた瞬間だと思っています。

シータって、あまり弱音を吐きません。

一回だけ、パズーに謝る場面があります。

自分のせいで巻き込んでしまった、という言い方。

あそこ、けっこうきついです。

十三歳の子が、いちばん先に他人の心配をしている。

あれができる子は、たいてい家でそう育てられています。

迷惑をかけちゃいけない、と早くから覚えた子。

しっかりしてるね、と言われがちなんですが、あれ、褒め言葉じゃないときもあると思うんです。

「土から離れては生きられない」の意味

シータが言う、あの有名なセリフがあります。

土から離れては生きられない、というやつ。

あれ、子どものころはただの決めゼリフだと思っていました。

でも、あれって彼女のおばあさんの言葉なんですよね。

つまりシータは、自分の考えを言ったんじゃなくて、家で教わったことを思い出しながら言っている。

十三歳くらいの子が、極限の場面で、家族の言葉を頼りにしている。

そう思って観ると、あの場面の見え方がだいぶ変わりました。

たぶんシータは、あの言葉の意味を全部わかって言っていたわけじゃない。

おばあさんがそう言っていたから、そうなんだろう、くらいだったと思います。

でも、ラピュタを見て、ムスカを見て、あの言葉が本当だったと気づいてしまう。

教わったことの意味が、あとから追いついてくる感じ。

あれって、実際に生きているとよくあることですよね。

親に言われたことの意味が、二十年経ってわかったりする。

ゴンドアの谷の描写も好きです。

広い草原と、風と、ヤク。

たった数十秒しか出てこないのに、あの場所の空気がちゃんと伝わってくる。

シータが守りたかったものは、あの景色なんだと思います。

ラピュタという特別な場所と、ゴンドアという普通の場所。

この映画は、その二つをずっと並べて見せてきます。

で、最後にシータが選ぶのは、普通のほうです。


▼ シータの視点で書いたオリジナル曲はこちら


シータの本名はリュシータ・トエル・ウル・ラピュタ——名前が長い理由

飛行石。

先に、名前そのものの話をします。

リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ。

長いのは、名字ではなく称号が連なっているからです。

ラピュタ語でウルは「王」、トエルは「真の」を意味するとされています。

そしてムスカの本名が、ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ。

ウル・ラピュタの部分が同じです。二人とも、ラピュタ王家の人間だということです。

違うのは、トエルとパロ。

ムスカ自身が作中で説明しています。トエル家とパロ家は、地上に降りたときに分かれた名だと。

シータが本家で、ムスカが分家。名前を並べるだけで、それが分かるようになっています。

よくできた仕掛けだと思います。長いだけの名前に見せかけて、血筋の上下まで入っている。

この話は、あとでムスカのところでもう一度出てきます。

あれは宝物であると同時に、シータにとってはたぶん重荷でした。

あの石があるから、みんなが彼女を狙う。

あの石があるから、軍にも空賊にも追われ、自分の生まれまで利用される。

自分のせいで人が不幸になる、という感覚。

あれを十三歳で抱えるのは、しんどすぎます。

シータが最初、名前を隠していたのも、そのせいだと思うんです。

リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ。

長い名前を口にした瞬間、また誰かが自分を利用しに来る。

名乗ることが危険になる、って相当なことです。

自分の一部を隠して生きるしかない。

しかも隠しているのは、悪いことじゃなくて生まれです。

シータが自分の名前をちゃんと言うのは、ずっとあとになってから。

あの順番も、たぶん意図されていると思います。

自己紹介ができない、って地味につらいことです。

人と仲良くなるとき、まず名前を言いますよね。

その入り口が塞がれている状態が、ずっと続いていた。

パズーが特別だった理由

パズーは、シータを助けます。

でも、たぶん大事なのはそこじゃない。

あの子は、シータが何者かを知る前に助けているんです。

落ちてきた女の子だから、受けとめた。それだけ。

飛行石が目当てでもなければ、王家の血に興味があったわけでもない。

シータにとって、たぶん生まれて初めてだったと思います。

自分についているものを見ずに、自分を見てくれた人。

だからあの子は、パズーの前でだけ普通の女の子になれた。

パン取ってきて、って言われて素直に喜ぶ場面とか、あそこ好きなんです。

あの朝ごはんのシーンって、話の筋としてはなくてもいいんです。

でも、あそこがないとこの映画は成立しない気がします。

目玉焼きをのせたパンを、二人で分けて食べる。

たったそれだけの場面が、あとの全部を支えている。

人が誰かを信じる理由って、案外そういうところにあるんだと思います。

パズーもパズーで、親を亡くしてひとりで暮らしている子です。

お父さんはラピュタを見たと言ったのに信じてもらえず、詐欺師の汚名を着せられたまま亡くなった。

その汚名を晴らすために、あの子は空を目指しています。

二人とも、家族の残したものを背負っている。

そこが同じだから、あんなに早く分かり合えたのかもしれません。

大人になってから気づいたこと

子どものころは、ラピュタを「空の冒険の話」として観ていました。

いまは、「もらってしまった力をどうするかの話」に見えます。

シータもパズーも、自分で望んで手に入れたものじゃない。

親から渡されたものを、どう扱うか。

これって、けっこう普通の悩みだと思うんです。

家業とか、期待とか、名前とか。

形は違っても、渡されてしまうものは誰にでもある。

だからこの映画は、大人が観てもちゃんと自分の話になる。

シータとムスカ——同じ血筋が選んだ、正反対の道

ムスカは、シータと同じ血筋の人間です。

ここが、この映画のいちばん残酷なところだと思っています。

同じものを背負って、まったく逆のほうへ行った人。

シータは石を怖がって、ムスカは石を欲しがった。

名前のところで書いたとおり、二人は同じ王家の人間です。トエル家とパロ家に分かれた、本家と分家。

同じ血を引いて、同じように地上で名前を隠して生きてきた。

そのうえで、シータは力を手放し、ムスカは力を手に入れようとしました。

分家に生まれた人間が、本家の娘に「王家の者らしくしろ」と迫る。あの場面が妙に生々しいのは、たぶんそこです。

地上で名前を隠して生きるって、そういうことです。

もしシータのそばにパズーがいなかったら。

あの子も、いつかムスカ側に行っていたかもしれない。

そう考えると、あの二人の対比がずっと怖いです。

ムスカって、実はけっこう有能なんですよね。

頭がいいし、準備もしている。ラピュタのことを一番よく調べていたのは、たぶん彼です。

だからこそ手に負えない。

目が、目がーっ、のところばかり有名ですが、あの人の本当に怖いところは、笑いながら人を撃つところだと思っています。

ムスカが玉座の間で言う「見ろ、人がゴミのようだ」。

あれ、力を持った人がいちばん最初に失うものを、一行で表していると思います。

高いところに立つと、人が小さく見える。それだけの話なのに、怖い。

ムスカがシータに「王家の者らしくしろ」と迫る場面も、いま観るとつらいです。

あれ、生き方を選ばせない言い方なんですよね。

生まれで役割を決めつけるという意味では、村や社会がやることと同じです。

バルスという滅びの言葉を、なぜシータが唱えたのか

バルス。

この場面、何度観てもすごいと思います。

シータは、自分の家の力を、自分の手で終わらせるんです。

王家の血を引く少女が、自分の家に残された力を、自分の手で終わらせる。

しかも、あの子は迷っていません。

言う前に、パズーに一度だけ確認して、それで終わり。

十三歳が、あんな決断をする。

大人でもできないと思います。

結末——バルスのあと、ラピュタとムスカはどうなったのか

では、バルスのあとに何が起きるのか。順に書きます。

まず、強い光が走ります。

ムスカは、その光で目をやられます。「目が、目がぁ」のあの場面です。

そして城が崩れはじめ、ムスカは瓦礫と一緒に落ちていきます。

はっきり「死んだ」とは描かれません。落ちていく姿が、細かい瓦礫にまぎれて小さく映るだけです。言われないと気づかない人も多いと思います。

シータとパズーは、崩れる前に外へ出ます。ドーラ一家とも合流して、全員無事です。

そしてラピュタ本体ですが、全部が壊れるわけではありません。

下のほう——兵器や玉座があった城の部分は、崩れ落ちます。

でも、飛行石を抱えた巨木の根と、その上の庭は残る。

残った部分が、ゆっくり上へ昇っていきます。

エンディングで、それが空へ上がっていく絵が流れます。あそこがこの映画のいちばん静かな場面だと思っています。

よく「宇宙まで行った」と言われますが、作中でそこまでは描かれていません。上がっていくところで終わります。

大気の中にいるなら、庭にいたキツネリスたちも、たぶん生きています。

「バルス」はどういう意味か

ついでに書いておきます。検索でよく出てくる話なので。

バルスは、ラピュタ語で「閉じよ」です。

宮崎駿監督の準備稿に「バルス(とじよ)」と書かれていた、と制作進行をしていた木原浩勝さんが自分の本で明かしています。

ネットでは「トルコ語で平和という意味」という説がよく出回っていますが、これは制作スタッフが否定しています。

「閉じよ」だと思って観ると、あの場面の意味が少し変わります。

壊せ、でもない。終われ、でもない。

開いてしまったものを、閉じる。

シータがやったのは、そういうことだったんだと思います。

ドーラたちのこと

あと、ドーラ一家が好きなんです。

最初は完全に敵として出てくるのに、途中から二人の味方になる。

あのおばさん、口は悪いけどちゃんと見ているんですよね。

シータに台所を任せたり、パズーに「男だろ」と言ったり。

やり方は雑だけど、子ども扱いはしない。

シータにとって、たぶん初めての「頼れる大人」がドーラだったと思います。

母親でも、先生でもなく、空賊のおばさん。

そこがこの映画のいいところです。

ドーラの息子たちも、いい味出してますよね。

母親に怒鳴られながら、シータのために本気で働く。

あの家族、口は悪いけど、ちゃんとあったかい。

『天空の城ラピュタ』が伝えたいこと——なぜあの島は滅びたのか

あの島には、木があります。

ロボットが花に水をやり、動物が住んでいる。

人間だけがいない。

あれが答えなんだと思います。

技術が悪かったんじゃなくて、地面から離れたことが問題だった。

シータのおばあさんの言葉が、ここでつながります。

宮崎駿はほんとうにうまいなあ、と毎回思います。

ロボット兵の場面も忘れられません。

壊れかけたロボットが、お墓に花を供えている。

あれ、何も説明されないんですよね。

ただ黙って、そこにいる。

人がいなくなったあとも、命令を守り続けている。

あの絵だけで、ラピュタが何を失ったのかが全部わかります。

セリフで説明しないって、こういうことなんだと思います。

ラピュタは、技術としては人類の最高到達点なんだと思います。

浮いている島。強力な兵器。ロボット。

それがぜんぶ残っているのに、人だけがいない。

進んだ先に誰もいない、というのは、けっこうな皮肉です。

公開は1986年。バブルに向かって日本がいちばん浮かれていた時期です。

その年に、浮いた島が落ちる映画を作っている。

狙っていたのかどうかは知りませんが、いま観るとちょっと出来すぎです。

あの夏のあと

映画は、二人が飛行機で飛んでいくところで終わります。

そのあとどうなったかは、描かれません。

わたしは、シータはゴンドアの谷に帰ったんじゃないかと思っています。

ヤクを飼って、畑を耕して、普通に暮らす。

あの子がずっと守りたかったのは、たぶんそういう生活だったから。

派手な冒険のあとに、地味な毎日が戻ってくる。

それでいいんだと思います。

冒険が終わったあとの生活って、映画では描かれません。

でも本当は、そっちのほうが長い。

シータは畑に戻って、たまに空を見上げる。

そのくらいでちょうどいい気がします。

派手なものを手放して、地味なものを選べる。それがあの子の強さだと思っています。

あの子はもう、飛行石なしで生きていける。

石を失って初めて、自分の名前で立てるようになった。

そう考えると、あの結末はぜんぜん喪失じゃないです。

失うことでしか自由になれない、というのは、なかなか厳しい話でもあります。

でもシータは、それを自分で選びました。

誰かに奪われたんじゃなくて、自分で手放した。

そこがいちばん大事なところだと思っています。

曲に込めたこと

この物語をもとに作った曲は、大人になったシータの視点で書きました。

冒険の途中じゃなくて、ずっとあとから振り返っている感じ。

あの夏のことを、たまに思い出す。それくらいの距離感にしたかったんです。

派手な場面はほとんど歌詞に入れていません。

代わりに、風とか、土のにおいとか、そういうものを書きました。

サビをどうするかで、けっこう悩みました。

バルスを入れるかどうか。

入れると、みんなが知っているあの場面に引っぱられてしまう。

結局やめました。

あの言葉を言ったあとに、何十年か生きた人の歌にしたかったからです。

録りながら、何回か手が止まりました。

思い出を歌にすると、どうしても湿っぽくなる。

でもシータって、たぶんそんなに湿った人じゃない。

だから、あえて淡々と歌うようにしました。

楽器も、なるべく少なくしています。

大編成にすると、映画のスケールに寄っていってしまうので。

ひとりの人が、静かな部屋で思い出しているくらいの音量にしたかった。

もしよかったら、映画を思い出しながら聴いてみてください。

おわりに

ラピュタは冒険活劇として完璧なんですが、それだけの映画じゃないと思っています。

大きな力を持ってしまった子が、それを手放す話。

そう読むと、大人になってからのほうが刺さります。

子どものころは、ラピュタが出てくる場面がいちばん好きでした。

いまは、パズーの家の朝ごはんと、ゴンドアの谷の話をしている場面のほうが好きです。

たぶん、あと十年経ったらまた変わると思います。

そういうふうに、観るたびに好きな場面が動いていく映画って、そんなに多くない。

もしまた金曜ロードショーでやることがあったら、シータのことを少し気にしながら観てみてください。

たぶん、いままでと違うところで胸が詰まると思います。

この記事と曲が、そのきっかけになれば嬉しいです。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

同じジブリでは、『魔女の宅急便』の記事も書いています。

あちらも、持っている力をどう扱うかの話でした。

シータは大きすぎる力を手放し、キキはひとつしかない力を失います。

方向は逆ですが、力がなくなったあとにその人が残る、というところは同じです。

スタジオジブリ作品の考察記事

音羽のブログでは、ジブリ作品もほかに書いています。

テーマでつながる考察

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