『鬼畜』利一はなぜ父を憎まなかったのか——音羽が読んで、ずっと考えていること

物語の考察

松本清張の『鬼畜』の話をします。

正直、何度も読み返したい話ではありません。

読むたびに、途中で本を置きたくなる。

それでも、頭から離れない小説です。

今回はその中でも、長男の利一のことを書きたいと思います。

以下は音羽の勝手な読み方です。正解を書くつもりはありません。

念のため、作品の枠だけ。

『鬼畜』は1957年に発表された松本清張の短編です。

1978年に野村芳太郎監督、緒形拳さん、岩下志麻さん主演で映画にもなりました。あの映画を観たことがある人も多いと思います。

タイトルの鬼畜という言葉が、もうきついです。

人が人でなくなる話、という意味だと思うんですが、読み終わると、それが誰のことなのか簡単には決められなくなります。

松本清張って、トリックのすごさで読ませる人ではないと思っています。

この人が書くのは、動機のほうです。

なぜその人がそこまでやってしまったのか。

だから読んだあと、犯人が憎いというより、しんどい気持ちだけが残る。

※内容に触れています。子どもが傷つけられる描写の話もします。しんどい方は無理をしないでください。

どういう話か

印刷屋をやっている宗吉という男がいます。

妻がいて、外に愛人がいて、その愛人とのあいだに三人の子がいる。

商売が傾いて、仕送りが止まる。

愛人は子どもを置いて、いなくなる。

残されたのが、利一とその弟妹です。

妻のお梅は、その子たちを受け入れません。

そこから先は、書くのもつらい展開になっていきます。

前提として、この家には最初から余裕がありません。

商売がうまくいっていない。借金もある。

そこに、いきなり三人の子どもが増える。

お金がないことが、人をどこまで追い詰めるか。

この小説は、そこをずっと書いています。

貧しさは、人の性格を変えてしまう。

それを認めるのは怖いけど、たぶん本当です。

お金があれば全部解決したのか、というと、それも違うと思います。

宗吉は、余裕があったころも子どもたちに会いに行っていません。

責任から逃げる癖は、最初からあった。

お金がなくなって、その癖がむき出しになっただけです。

愛人の側にも、たぶん言い分はあります。

三人産んで、仕送りが止まって、どうにもならなくなった。

置いていったことを責めるのは簡単ですが、あの人にも逃げ場がなかった。

この小説、逃げ場のない人しか出てこないんです。

利一という子

利一は、三人のうちいちばん上です。

六つくらい。

その年で、弟と妹の面倒を見ています。

しかも、あの家の空気を読んでいる。

自分たちが歓迎されていないことを、たぶんわかっている。

子どもって、そういうのに敏感です。言われなくても伝わる。

だから利一は、いい子でいようとします。

騒がない。わがままを言わない。

六歳が、そんなことを覚えないといけない状況って、なんなんだろうと思います。

しかも利一は、下の二人を守ろうとします。

自分の食べるものを分けたり、泣いている妹をなだめたり。

親のかわりを、六歳がやっている。

大人がひとりでも機能していれば、そんなことをしなくてよかったのに。

しっかりした子だね、と褒められる子ほど心配だ、という話を聞いたことがあります。

利一は、まさにそれです。

手のかからない子は、手をかけてもらえない。

泣いて騒ぐ子のほうが、まだ助けを呼べている。

黙っている子は、見過ごされる。

利一は、いちばん見過ごされやすい子でした。


▼ 利一の視点で書いたオリジナル曲はこちら


父を憎めない

この小説でいちばん苦しいのは、そこです。

あれだけのことをされて、利一は父を憎まない。

最後まで、父さん、と呼ぶ。

普通なら、恨んでいいはずです。

でも、子どもは親を嫌いになれないんですよね。

嫌いになったら、自分の居場所がなくなるから。

好きでいるしかない、という状態がある。

あれは愛情というより、生きるための機能に近い気がします。

虐待を受けた子が、それでも親をかばうという話をときどき聞きます。

外から見ると、どうして、と思う。

でも、あの子たちにとっては親しかいないんです。

その人を否定したら、世界が全部なくなってしまう。

利一が父を憎まないのは、優しいからじゃない。

ほかに、すがるものがなかったからだと思います。

そう考えると、あの「父さん」という呼び方が、余計に重く聞こえます。

あれは信頼の言葉であると同時に、必死の言葉でもある。

呼び続けていれば、父でいてくれるかもしれない。

そういう祈りに近い気がします。

もし利一が一度でも父を責めていたら、あの話はもう少し楽に読めたと思います。

責めてくれたほうが、こちらも怒れるので。

でも、そうしてくれない。

だから読者は、怒りの持っていき場を失います。

その行き場のない感じが、読み終わったあとずっと続きます。

たぶん、それが狙いです。

宗吉のこと

宗吉は、明確な悪人として書かれていません。

そこが松本清張のこわいところです。

意志が弱くて、流されて、その場をしのごうとするだけの男。

妻に強く言われれば従うし、追い詰められれば逃げる。

よくいる人です。

でも、そのよくいる人が、あそこまでのことをしてしまう。

悪意より、弱さのほうが人を殺すことがある。

この小説は、それを見せてきます。

宗吉は、どの場面でも自分では決めていません。

妻に押され、状況に押され、その場をやり過ごす。

決めていないつもりで、いちばん取り返しのつかないことをしてしまう。

決断を先延ばしにするのって、何もしていないようで、実は選択なんですよね。

あの人を見ていると、それがよくわかります。

弱いだけの人が、いちばん怖い。

宗吉が最後にどういう顔をしていたか。

そこも、はっきりとは書かれていません。

後悔していたのか、ほっとしていたのか。

わからないままにされます。

わからないから、ずっと考えてしまう。

人間って、そんなにきれいに反省しないと思うんです。

後悔と、安堵が同時にある。

その気持ち悪さまで書くのが、松本清張だと思います。

お梅のこと

妻のお梅も、悪役として片づけられない人です。

夫が外に女を作り、子どもまでいた。

その子たちが家に来る。

冷静でいられるほうが、たぶんおかしい。

だからといって、あの子たちにあたっていい理由にはならない。

そこは、はっきりしています。

ただ、誰かひとりを責めて終わりにできない構造になっているのが、この作品のいやらしさです。

お梅も、たぶん最初からああだったわけじゃない。

裏切られて、生活も苦しくて、そこに夫の子どもが来る。

自分の人生が壊れていく感覚だったと思います。

その怒りを、いちばん弱いところにぶつけてしまった。

人は追い詰められると、自分より下を探す。

見たくないですが、そういうものだと思います。

お梅を悪い人だと切り捨てるのは簡単です。

でも、あの立場になったとき、自分が何もしない自信はあるかというと。

正直、ありません。

Solidarity, compassion, and charity, rescue. Hands of man and woman reaching to each other, support. Giving a helping hand. Lending a helping hand. Black and white.

東尋坊の場面

後半の、あの場面。

何度読んでも息が止まります。

利一は、そのとき何を思っていたんだろう。

たぶん、まだ父を信じていたと思うんです。

連れて行ってもらえる、と思っていた。

その信じている顔のまま、あそこに立っていた。

それを考えると、本当にきついです。

松本清張は、この場面でも大げさな書き方をしません。

淡々としている。

だから逆に効くんです。

感情を煽られていないぶん、こちらが勝手に想像してしまう。

あの抑えた筆致は、たぶんわざとです。

映画版の緒形拳さんも、まさにそういう芝居でした。

泣きも喚きもしない。

普通の顔をした人が、普通の顔のままやってしまう。

あれがいちばんこわい。

黙るという選択

最後、利一は何も言いません。

言えばよかったのに、と思う人もいると思います。

でも、あの子は言えなかった。

言った瞬間に、父が父でなくなってしまうから。

六歳の子が、最後まで守ろうとしたものが、たぶんそれです。

この結末を「けなげ」と呼ぶのは、なんか違う気がしています。

あれは美しい話じゃない。

子どもがそこまで背負わされている、という話です。

美談にしてしまうと、大人の側が救われてしまう。

それはたぶん、この小説がいちばん望んでいないことです。

タイトルは誰のことか

鬼畜、という言葉。

普通に読めば、宗吉とお梅のことです。

でも読み終わったあと、それだけじゃない気がしてきます。

気づいていて何もしなかった周りの人。

そして、こうして本として読んでいるだけのわたし。

この小説は、そこまで含めて突きつけてくる気がします。

松本清張は、そういう書き方をする人です。

社会派と呼ばれるのは、事件を書いたからじゃなくて、読者を巻き込むからだと思っています。

読んで気分がよくなる小説ではありません。

でも、読んでよかったとは思います。

その二つは、両立するんだなと思いました。

もし読むなら、体力があるときにしてください。

短い作品ですが、消耗します。

いまの話でもある

この小説が出たのは1957年です。

六十年以上前。

でも、いまも似たような事件のニュースを見ます。

経済的に追い詰められて、家庭の中で誰かが犠牲になる。

形は変わっても、同じことが起き続けている。

松本清張が書いていたのは、特殊な事件じゃなかったんだと思います。

当時の日本は、まだ戦後の貧しさを引きずっていました。

生活保護も、相談窓口も、いまほど整っていない。

困っても、どこにも言えない。

制度がないと、家庭の中に全部がしわ寄せされます。

そして、いちばん弱い人のところに落ちる。

いまは制度があるぶんマシですが、それでも同じ形の事件は起きています。

つまり、制度だけの問題でもない。

結局、気づくかどうかなんだと思います。

隣の家の子が、最近やせたな、とか。

そのくらいのことに気づける距離が、いまはむしろ減っている気もします。

曲に込めたこと

この物語をもとに作った曲は、利一の視点で書きました。

恨みの歌にはしていません。

あの子は、最後まで恨まなかったので。

代わりに、父と歩いた道のことを書きました。

手をつないでいた時間だけは、たぶん本物だったはずなので。

あの子にも、楽しかった日はあったはずなんです。

全部が地獄だったわけじゃない。

むしろ、いい思い出があるからつらい。

その両方を歌に入れたかった。

メロディは、あえて素朴なものにしています。

子どもが口ずさむような感じ。

そのほうが、聴いたあとに残ると思ったので。

聴くのがつらい方は、無理をしないでください。

おわりに

この作品を読んだあと、いつも同じことを考えます。

あの子を助けられた人は、いなかったんだろうか。

近所の人。学校の人。誰か一人でも。

たぶん、気づいていた人はいたと思います。

でも、他人の家のことだから、と黙った。

その沈黙のほうが、いま読むといちばんこたえます。

他人の家に口を出すのは、いまでも難しいです。

間違っていたら気まずいし、恨まれるかもしれない。

でも、間違っていたほうがいいんですよね、こういうことは。

何もなかったなら、それでいい。

この小説を読んでから、そう思うようになりました。

この記事と曲が、あなたにとって、身近な誰かを少し気にかけるきっかけになれば嬉しいです。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

音羽(Otowa)について

音羽は、小説や映画、童話を題材に、登場人物の心情を歌にしているチャンネルです。

あらすじをなぞるのではなく、その人が何を感じていたかを想像しながら、歌と文章で書いています。


▼ 『鬼畜』の世界を描いたオリジナル曲


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