『花束みたいな恋をした』なぜ二人は別れたのか——音羽が考える、誰も悪くないすれ違い

物語の考察

『花束みたいな恋をした』を観たあと、しばらく席を立てませんでした。

別に、大きな事件が起きるわけではありません。誰かが裏切ったわけでも、事故が起きたわけでもない。ただ、好きだった二人が、少しずつすれ違って、終わっていく。それだけの話です。

それだけの話なのに、どうしてこんなに胸が痛いのだろう、と思いました。たぶん、心当たりがありすぎるからです。

好きだったものに時間を割けなくなっていく感覚。忙しさに追われて、大切な人との会話が減っていく感覚。あの映画で描かれることの多くは、程度の差こそあれ、誰の人生にも起きていることだと思います。

だからこの作品は、二人の物語であると同時に、観ている側の記憶を掘り起こす装置でもあるのでしょう。

この記事では、この物語を主人公・麦くんの側から考えてみたいと思います。ただ、これは映画の解説でも、正解の読み方でもありません。あくまで、音羽が想像した麦くんです。彼はどこで何を選び、何を失っていったのか。わたしなりに考えたことを書いてみます。

簡単に振り返っておくと、この作品は2021年に公開され、菅田将暉さんと有村架純さんが主演した映画です。脚本は坂元裕二さん。終電を逃した夜に偶然出会った大学生の二人が、恋に落ち、一緒に暮らし、そして五年後に別れるまでを描いています。

公開当時、「自分たちの話みたいだ」という感想がSNSにあふれたのを覚えています。そういう作品は、なかなかありません。

※物語の結末に触れています。これから観る予定の方は、ご注意ください。


「世界中で僕たちだけが正解」だった日々

出会った頃の二人は、本当に奇跡みたいでした。

読む本も、観る映画も、聴く音楽も、好きなお店まで同じ。あんなに趣味の合う相手に出会えることなんて、人生でそう何度もありません。あの序盤の高揚感は、観ているこちらまで嬉しくなるほどでした。

お金はないけれど、好きなものに囲まれて、笑い合って暮らす日々。「このままずっと、こうしていられたら」——二人が本気でそう思っていたのが伝わってきます。

ただ、今になって思うのです。あの完璧な一致こそが、実は危うかったのではないか、と。趣味が同じというのは、たしかに強い絆になります。でも、それだけで結ばれた関係は、どちらかの「好き」が変わってしまったとき、支えを失ってしまうのですから。

もうひとつ、この時期の二人を見ていて感じたのは、「同じものを好き」でいられる時間の尊さです。

学生のうちは、時間がたっぷりあります。好きな映画を観る時間も、それについて何時間も語り合う時間も。でも社会に出ると、その余白がごっそり減ってしまう。二人を結びつけていたのが「文化を分かち合う時間」だったとしたら、その時間が奪われた瞬間、関係の土台が揺らぐのは当然だったのかもしれません。

「好き」だけでは、暮らしていけなかった

麦くんが就職を決めた場面を、わたしは責める気になれません。

家賃も光熱費もかかる。イラストの仕事だけでは食べていけない。二人でこれからも一緒に暮らしていくために、彼はスーツを着ることを選びました。それは、逃げではなく、むしろ真面目さの表れだったと思います。

でも、その真面目さが、彼をすり減らしていく。

仕事に追われ、好きだった音楽を検索する余裕もなくなり、本を開いても数ページで眠ってしまう。あんなに好きだったものが、少しずつ自分の中から消えていく。しかも、それは一気に起きるのではなく、ゆっくりとしたグラデーションで進むから、本人も気づきにくい。

わたしが観ていて胸が苦しくなったのは、麦くんが悪い方向に「変わった」のではなく、ただ疲れていっただけだという点でした。誰にでも起こりうることだからこそ、他人事にできないのです。

印象的なのは、麦くんが「人生は責任だ」といった趣旨のことを口にするようになる場面です。学生の頃の彼なら、絶対に言わなかった言葉でしょう。

でも、これは彼が俗物になったということではないと思うのです。守るものができた人間が、自然とたどり着く場所。ただ、その変化に、絹ちゃんはついていけなかった。どちらが正しいかではなく、歩幅が変わってしまった、というだけの話なのだと思います。

▼ この物語の想いを歌にしたオリジナル曲は、こちらからご覧いただけます。

守ろうとするほど、離れていく

この物語のいちばん残酷なところは、二人の願いが同じ方向を向いていなかったことだと思います。

麦くんが見ていたのは「未来」でした。ちゃんと稼いで、結婚して、これからも一緒に暮らしていくこと。

絹ちゃんが見ていたのは「今」でした。好きなものを分かち合いながら、笑って過ごす、あの時間そのもの。

どちらも、相手を大切に思っていたのは間違いありません。それなのに、守り方が正反対だった。麦くんは「変わること」で関係を守ろうとし、絹ちゃんは「変わらないこと」で守ろうとした。

だから、彼が頑張れば頑張るほど、二人の「今」は壊れていく。この皮肉が、本当に切ないのです。

結婚の話が出る場面も、観ていてつらいところでした。麦くんにとって結婚は「一緒にい続けるための手段」でしたが、絹ちゃんにとっては「今のまま一緒にいられないことの証明」に見えてしまう。

同じ言葉が、二人にまったく違う意味で届いてしまう。関係が終わりに向かうときというのは、こういう小さなずれが、修復できないほど積み重なった状態なのかもしれません。

イヤホンを分け合わなくなった日

出会った頃、二人は一つのイヤホンを分け合って同じ音楽を聴いていました。

それが、いつのまにか、別々の帰り道で、違う音楽を聴くようになる。

この描き方が、本当に上手いと思いました。「別れよう」という言葉より、この一場面のほうが、二人の距離をはっきりと示している。恋が終わるときというのは、たぶん、こういう小さな変化の積み重ねなのでしょう。

この映画には、こうした「小さな変化」がいくつも散りばめられています。好きだったゲームをしなくなる。本棚の並びが変わる。休日の過ごし方がずれていく。

どれも、それだけ取り出せば、なんてことのない出来事です。恋人と喧嘩する理由にすらならない。でも、後から振り返れば、あそこが分かれ道だったと分かる。人生の大事な転換点は、たいてい、その瞬間には気づけないものなのかもしれません。

そして、思い出のファミレスの窓際席。かつては何時間でも語り合えたその場所で、もう楽しい話ができなくなっている。同じ場所に座っているのに、同じ時間を過ごせない。

あの店で、出会った頃の自分たちにそっくりな若いカップルを見かけて、二人が涙する場面。あそこは、何度思い出しても胸が締めつけられます。かつての自分たちを、もう取り戻せないと、二人とも分かってしまったのだと思います。

あの涙は、若いカップルへの嫉妬ではなかったと思います。むしろ、「自分たちにもあんな時間があった」という確認と、それがもう戻らないという事実を、同時に突きつけられた涙だったのでしょう。

言葉にすれば「もう終わりだね」の一言なのに、それを直接言わせない。この描き方に、この作品の品の良さがあると思います。

この物語には、決定的な「別れの理由」が用意されていません。だから観たあとに、ずっと考えてしまうのです。どこかで引き返せたのだろうか、と。

たぶん、引き返せる瞬間は何度もあったはずです。ただ、その瞬間には誰もそれが分岐点だと気づかない。それが、いちばん怖いところだと思います。

どちらも悪くない。だから、つらい

この映画には、悪者が出てきません。

浮気も、裏切りも、嘘もない。麦くんは生活のために必死に働いただけ。絹ちゃんは、大切な気持ちを守りたかっただけ。それなのに、二人は別れる。

もし、どちらかがひどい人だったら、観ているこちらは楽だったはずです。「そんな人とは別れて正解」と思えますから。でも、この物語はそれを許してくれません。誰も責められないまま、ただ「終わってしまった」という事実だけが残る。

恋が終わる理由は、いつも劇的なものとは限らない。むしろ、こういう静かな終わり方のほうが、現実にはずっと多いのだと思います。

そして、この物語がすごいのは、二人が別れを決めたあとに、少しだけ穏やかな時間が流れることです。

もう恋人ではないと分かってから、かえって自然に話せるようになる。あの空気の描き方が、妙にリアルでした。終わりを受け入れた人間だけが持てる、静かな優しさというものが、確かにあるのだと思います。

花束は、いつか枯れる。それでも

タイトルの『花束みたいな恋をした』という言葉を、わたしは最初、きれいな比喩だと思っていました。

でも、観終わってから気づいたのです。花束は、必ず枯れるのだ、と。

もらった瞬間がいちばん美しくて、香りも色も鮮やか。でも、どんなに大切に飾っても、少しずつしおれていく。永遠には咲き続けられない。

二人の恋も、まさにそうでした。完璧に噛み合った、あの奇跡のような始まり。けれど、それは花束のように、いつか枯れる運命にあったのかもしれません。

だからといって、その恋が無意味だったわけではないと思うのです。枯れると分かっていても、人は花束の美しさに心を奪われる。恋も同じで、終わりがあることと、その時間が本物だったことは、まったく別のことなのですから。

もし枯れるのが嫌なら、最初から花束をもらわないという選択もあります。誰とも深く関わらず、期待もしない。そうすれば、失う痛みも味わわずに済むでしょう。

でも、それは何も持たないということでもある。この映画を観ていると、痛みごと引き受けた人だけが手にできるものがある、という気がしてくるのです。

だからこの物語は、悲しいけれど、絶望の話ではないのだと思います。

観るたびに、違うところが刺さる

この映画は、観る人の状況によって、刺さる場面が変わるのだと思います。

学生のときに観れば、二人の出会いの高揚感に共感するでしょう。働き始めてから観れば、麦くんの疲れが痛いほど分かるはずです。長く誰かと付き合った経験があれば、あのファミレスの沈黙が、他人事ではなくなる。

わたし自身、もう少し年を重ねてから観返したら、また違う感想を持つのだろうと思っています。人生を映す鏡のような作品というのは、そういうものなのでしょう。

ちなみに、この映画がここまで多くの人に刺さったのは、細部のリアリティのおかげでもあります。実在する本や音楽、お店の名前が次々と出てきて、まるで自分の思い出をなぞられているような感覚になる。

物語というより、記録に近い手触り。だからこそ、観る人それぞれが「自分の話」として受け取ってしまうのだと思います。

そして、この物語が問いかけてくるのは、たぶんこういうことです。——「変わってしまった自分」を、どう受け止めればいいのか。

人は変わります。それ自体は自然なことで、悪いことではありません。難しいのは、変わっていく自分と、変わらないでいてほしい相手との間で、どう折り合いをつけるか。この映画は、その答えを教えてはくれません。ただ、答えのない現実を、そのまま見せてくれるだけです。

ひとつだけ、この作品を観てから考えるようになったことがあります。それは、「相手に合わせて自分を変えること」と「自分を失うこと」は、境目がとても曖昧だということです。

麦くんは、二人の生活を守るために変わりました。その選択自体は、間違っていないと思います。ただ、彼はその過程で、自分がいちばん大切にしていたものまで手放してしまった。守ろうとしたものと、守るために失ったもの。そのバランスが崩れたとき、関係もまた壊れてしまうのかもしれません。

これは、恋愛だけの話ではないですよね。仕事でも、家族でも、同じことが起きうるのだと思います。

それでも、あの時間は本物だった

最後に、わたしがこの映画から受け取ったことを書いておきます。

恋が終わったからといって、その時間まで否定する必要はない、ということです。

一つのイヤホンを分け合った夜も、夢中で語り合った日々も、「世界中で僕たちだけが正解だ」と信じられたあの感覚も、すべて本物でした。別れたという結果が、過去の幸せを塗り替えることはありません。

もしあなたにも、「あの頃はよかった」と思える時間があるなら。その時間は、終わってしまったとしても、確かにあなたの一部になっているはずです。

そして、もし今まさに誰かとの関係に迷っている方がいたら。この映画は、答えをくれる作品ではありませんが、「同じように悩んだ人がいる」ということだけは教えてくれると思います。

わたしはこの作品を、恋愛映画というより、時間の経過をめぐる物語として観ました。人は変わる。関係も変わる。それは避けられない。その事実を、こんなに丁寧に、こんなに優しく描いた作品を、わたしはほかにあまり知りません。

花束みたいな恋の切なさと、その美しさを、音羽のオリジナル曲とあわせて感じていただけたら嬉しいです。

▼ 『花束みたいな恋をした』の世界を描いたオリジナル曲(再掲)


▼ 音羽チャンネルはこちら(チャンネル登録お願いします!)
https://www.youtube.com/channel/UCFrbhcvlbZ7YQn31F5neoDg

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