「娘の死は、事故ではない」、『告白』森口悠子という母の静かな復讐

物語の考察

「私の娘は、あなたたちのクラスメートに殺されました」

終業式の日、担任の先生がそう言うところから始まります。湊かなえさんの『告白』です。

読み終わったあと、しばらく本を閉じられませんでした。怖かったからじゃありません。誰にも味方できなかったからです。

『告白』はどういう話か——終業式の日の告白

語り手は森口悠子(もりぐち ゆうこ)。中学校の教師で、四歳の娘・愛美(まなみ)の母親です。

愛美は学校のプールで死にました。事故として処理されています。

でも森口は、そうじゃないと言う。自分のクラスの生徒二人が殺したのだ、と。

少年A(渡辺修哉/わたなべ しゅうや)と少年B(下村直樹/しもむら なおき)です。

森口は警察に行きません。十四歳未満の二人に刑罰が科されないことを、知っているからです。

だから自分でやることにした。

そして、クラス全員に配った牛乳のうち、二人ぶんにHIV感染者の血を入れたと告げる。

これが第一章の告白です。ここから先、この小説はずっと下り坂を転がっていきます。

発表は二〇〇八年。湊かなえさんのデビュー作です。

もともとは「聖職者」という短編で、小説推理新人賞を取っています。その一話が評判になって、続きが書き足されて長編になりました。

だから第一章だけでも成立する作りになっています。実際、あの終業式の場面だけでも十分こわい。

二〇一〇年には中島哲也監督で映画にもなりました。松たか子さんが森口を演じています。

教壇に立ち生徒に語りかける女性教師
終業式の日、彼女は静かに話しはじめた

森口悠子という人——先生である前に、母だった

森口は、いわゆる熱血教師ではありません。

生徒を名前で呼んで、授業を淡々とやって、終業式の日も静かに話し始める。声を荒らげる場面がほとんどない。

その静けさが、逆にこわいんです。

怒っている人は、まだ止められます。でも決めてしまった人は止まらない。

彼女は教師としてではなく、母親として動いています。そこを一度も隠していません。

だからこの小説の森口は、正義の人ではありません。ただの、娘を失った人です。

もうひとつ、森口について言っておきたいことがあります。

彼女には婚約者がいました。HIVに感染していた人です。

森口はその人と結婚しませんでした。父親が感染者だと知られて、子どもが差別を受けることを恐れたからです。二人で決めたことでした。

つまり彼女自身も、一度「世間」に負けている人です。

だから少年法という仕組みに対しても、最初から期待していません。

わたしには、この人が制度に期待していないように見えました。そこを押さえておくと、あの復讐の理屈が少しだけ分かります。

牛乳を飲んだかどうか——あの脅しは本当だったのか

いちばん語られるのが、この牛乳の場面です。

血を入れた、と森口は言いました。

あとになって、桜宮正義が二人の牛乳をこっそり元に戻していた、という説明が出てきます。

でも、それを知らない直樹の中では、森口の言葉がそのまま恐怖として残り続けます。

同じ告白を受けても、二人の反応はまるで違いました。

ここで二人の差が出ます。

直樹は、自分が汚れたと思い込んで壊れていきます。修哉は、平気な顔で学校に来る。

つまり森口がやったのは、毒を盛ることではなく言葉を置くことでした。

入っていたかどうかは、たぶんどちらでもよかった。信じた人だけが崩れる。

この時点で、森口は相手をちゃんと見ています。誰が何を怖がるかを、教師として知っている。

そこが読んでいていちばん嫌でした。

ちなみに、牛乳の件はクラス全員の前で言われています。

名前は出しません。少年Aと少年B、とだけ言う。

でもクラスの子たちは、誰がAで誰がBかをすぐに察します。

その結果どうなったか。二人は教室で徹底的に排除されます。

森口は、同級生たちによる制裁が起きる状況を作りました。手を下したのは、三十人の中学生です。

クラスを使って制裁を回す。これがこの人のいちばん静かな残酷さだと思います。

教室の席につく中学生たち
同じ教室にいて、二人はまるで違っていた

少年Aと少年Bは、まるで違う

ひとくくりに犯人と呼ばれますが、二人は正反対です。

修哉は、母親に認められたい子です。母は優秀な研究者で、家を出ていった。だから彼は「すごいもの」を作り続けます。世間を驚かせれば、母が振り向くと思っている。

愛美を気絶させたのは彼の発明品でした。ただ、そこで彼は手を止めています。

直樹は、その逆です。

勉強もできない、目立たない、修哉に見下されている。だから修哉に「失敗した」と言われた瞬間、気絶していた愛美をプールに投げ込みました。

実際に愛美を死なせたのは、直樹のほうです。

修哉は殺せなかった。直樹は認められたくて殺した。

どちらも動機は同じところから出ています。誰かに見てほしい、という一点です。

もう一点。修哉と母の関係は、そんなに単純ではありません。

母に教えられ、認められた記憶があります。でもその母は、研究への道を断たれた怒りを、修哉に向けることもありました。

求める気持ちと、傷つけられた経験が、同じ相手に重なっている。だから彼は、優秀であることをやめられない。

直樹のほうは、別の形で苦しんでいます。

向きは違っても、どちらも同じ場所で壊れています。

少年法という言葉について

この小説がずっと引っかかっているのは、少年法です。

十四歳未満は刑事責任を問われません。これは刑法の規定です。修哉も直樹も、そこに守られています。

森口はそれを最初から知っていて、だから警察に行きませんでした。

ここで私は考え込みました。

では、どうすればよかったのか。

制度の手続きに乗せたとしても、森口が求める償いには届きません。刑罰を受けないことと、何の処遇も受けないことは別ですが、彼女が欲しかったものは、そこにはなかった。

でも森口のやり方を認めてしまうと、遺族が自分で裁いていい、という話になります。

どちらも取れない。だからこの小説は、読んだあと宙ぶらりんのまま残ります。

湊かなえさんは答えを書いていません。書けないことを知っていて、書かなかったんだと思います。

北原美月という子のこと

もうひとり、忘れてはいけない人がいます。北原美月(きたはら みづき)です。

クラス委員で、修哉に近づいていく女の子。

彼女は修哉を理解しようとします。同じ側の人間だと思っている。

でも最後、修哉に殺されます。

この子が死ぬ場面が、私はいちばんきつかったです。

美月は誰も殺していません。ただ、分かり合えると思っただけ。

この小説では、歩み寄ろうとした人がいちばんひどい目に遭います。

美月は「ルナシー事件」という毒殺事件に興味を持っている子でもあります。

殺人に惹かれる自分を、修哉なら分かってくれると思った。

でも修哉は分かりませんでした。というより、分かる必要がなかった。

彼が求めていたのは母親だけです。美月は最初から対象外でした。

自分と似ていると思った相手が、こちらを見てもいなかった。それがこの子の最後です。

美月は、この小説でただひとり森口に近い場所にいた人だとも思います。

人の悪意を見つめても平気でいられるタイプ。

もし大人になっていたら、森口のような人になっていたかもしれません。

そう考えると、修哉が殺したのは自分を理解する唯一の相手でした。

夜の台所で盆を持ちドアの前に座る母親
ドアの前に座って、冷めていくのを見ていた

直樹と、その母親

直樹のほうも、家で壊れていきます。

部屋から出られなくなって、母親だけがそれを支える。

この母親は、息子をかばい続けます。うちの子は悪くない、と言い続ける。

でも、本人の口から真実を聞いたとき、信じていた息子の像が崩れます。守ろうとする気持ちが、息子を道連れにしようとする行動に変わってしまう。

結果、刺されたのは母親のほうでした。

守ろうとした人が、守ろうとした相手に殺される。

この小説には、そういう形の死が何度も出てきます。

この母親のことを、悪く言う人もいます。息子を甘やかしたから、と。

でも私はそう思えません。

自分の子が人を殺したと知ったとき、突き放せる親がどれだけいるでしょうか。

この人は最後まで、ひとりで抱えました。誰にも相談していません。

相談できる相手がいたら、たぶん結末は違っていました。

森口が最後にやったこと

物語の終わりで、修哉は自作の爆弾を学校に仕掛けます。全校生徒の前で、派手に終わらせるつもりでした。

でも爆発は起きません。

森口が先回りして、爆弾を別の場所に移していたからです。

移した先は、修哉の母親がいる研究室でした。

修哉がいちばん認められたかった相手を、修哉自身の作ったもので奪う。

殺すより重い罰を、彼女は選びました。

そして最後、電話越しに「これがあなたの更生の第一歩です」という意味のことを言う。

電話の向こうでは、サイレンが鳴っています。

修哉の母親は、この時点で再婚して別の家庭を持っています。

修哉のことはもう見ていません。

彼がどれだけすごいものを作っても、届かない場所にいる。

森口はそれを知ったうえで、そこへ爆弾を送りました。

届かないはずだったものを、いちばん最悪な形で届けさせた。

ここまで正確に人を壊せる人を、私はほかの小説で見たことがありません。

映画版で足された「なーんてね」

ここで、原作と映画を分けておきます。

「なーんてね」という台詞は、映画版で足されたものです。原作にはありません。

原作は、更生の第一歩だと思いませんか、という意味の言葉で終わります。

映画のあの一言は、冗談だった、という意味にも取れます。全部つくり話だった、とも取れる。

でも私は、そう読んでいません。

あれは、森口が自分の手を見て言った言葉のように聞こえます。

ここまでやっておいて、最後に「なんてね」と言えてしまう。つまり彼女は、もう自分が何をしたのかを感じなくなっている。

娘を失ったとき、この人の中で何かが終わっていました。

復讐が終わっても、それは戻ってきません。

勝利宣言じゃなくて、空っぽの音だと思います。

もうひとつの読み方もあります。

最後の電話は、全部が嘘だったという読み方です。爆弾は移していないし、母親も死んでいない。ただ修哉を苦しめるためだけに言った、という。

どちらとも取れるように書いてあります。

ただ、どちらにしても森口が修哉にやったことは同じです。

本当かどうか確かめられない話を置いて、そのまま立ち去る。

牛乳のときと、やり方がまったく同じなんです。

私はどちらかといえば、本当にやったほうだと思っています。

この人は牛乳のときも、実際に血を用意できる立場にいました。

言うだけで済ませるより、手を動かしてから言葉を置く。そういう順番の人に見えます。

この小説に、悪い人はいるのか

読み終わって考えたのは、誰が悪かったのか、でした。

修哉は母に認められたかった子です。直樹は誰にも認められない子です。美月は分かり合えると思っていました。直樹の母は息子を守ろうとしました。森口は娘を殺された人です。

全員に事情があります。

でも、全員が誰かを壊しています。

誰にでも事情があります。でも、事情が分かることと、その人のしたことを許せることは別です。この小説は、その二つを何度も突きつけてきます。

だから読み終わったあと、誰の側にも立てません。

強いて言うなら、いちばん何もしていないのは愛美です。

四歳で、何も分からないまま水に落とされた。

この子だけが、一度も語りません。六つの章のどこにも、愛美の声はない。

全員が自分のことを話すこの小説で、ひとりだけ黙っている。

そこが、読み終わってから効いてきます。

それから、映画版を先に見た人にも言っておきたいことがあります。

映画はとても良くできていますが、印象はだいぶ違います。

映像だと、森口の顔が見えてしまう。

小説では、映画ほど直接、森口の表情を見せられるわけではありません。声だけが続きます。

顔が見えないほうが怖い、というのは、この作品にかぎってはその通りだと思います。

夜の校舎の廊下で電話をかける女性教師
最後の告白は、電話越しだった

タイトルが『告白』である理由

この小説は、六つの章でできています。語り手が章ごとに変わる作りです。

森口、美月、直樹の姉、直樹、修哉、そしてもう一度森口。しかも形式がそれぞれ違います。第三章では、姉を通して母の日記が示されます。

全員が自分の側から語ります。

そして全員が、自分の話の中では被害者の顔をしています。

告白というのは、普通は罪を認める行為です。

でもこの小説の告白は、そうなっていません。みんな、話せば話すほど自分を正しくしていく。

本当のことを言っているのに、誰も反省していない。

イヤミスと呼ばれるジャンルの代表作として紹介されることが多い作品です。

たしかに後味は悪い。でも私は、悪趣味な話だとは思っていません。

人が人を壊すときの順番を、ここまで正確に書いた小説はそんなにない。

だから何度も読み返してしまいます。

章が進むごとに、前の章で見えていたものが裏返ります。

森口の章で加害者に見えた子が、次の章では被害者に見える。

そしてまた次の章で、やっぱり加害者に戻る。

読者は最後まで、誰のことも一度も信じきれません。

この作りがあるから、タイトルが『告白』でないと成立しないんだと思います。

イヤミスとは——『告白』がその代表と呼ばれる理由

この小説は、イヤミスという言葉と一緒に語られることが多い作品です。

イヤミスは「イヤな気分になるミステリー」の略です。書評家の霜月蒼さんが2007年ごろに使いはじめた言葉で、いまは辞書にも載っています。

言葉が一気に広まったのは、2008年に出たこの『告白』が売れてからでした。

普通のミステリーは、犯人が分かって、裁かれて、読者がすっきりして終わります。

イヤミスは、そこを渡してくれません。

真相は分かります。でも、気持ちよくならない。むしろ、読む前より嫌な気分になって本を閉じることになります。

この分野を代表する三人は、三大イヤミス女王と呼ばれています。

  • 湊かなえ——『告白』『贖罪』『Nのために』
  • 真梨幸子——『殺人鬼フジコの衝動』
  • 沼田まほかる——『ユリゴコロ』

扱う題材にも共通点があります。いじめ、DV、虐待、不倫、ネットの悪意。事件そのものより、人と人のあいだで起きる摩擦のほうが怖い。

『告白』が代表作と言われるのは、ここが徹底しているからだと思います。

この小説には、すっきりする場所が一つもありません。

犯人は最初から分かっています。でも裁かれません。少年法があるからです。

復讐は成立します。でも、誰も救われません。

全員が自分の言い分を語りますが、語れば語るほど、誰も反省していないことが見えてくる。

そして最後の「なんてね」。

ただ、私はこの言葉だけでこの小説を片づけたくありません。

後味が悪いのは本当です。でも、悪趣味だから後味が悪いのではありません。

人が人を壊していく順番を、正確に書いているから嫌な気分になるんです。

そこを見ないふりして終われないから、読者はもやもやしたまま残される。

イヤミスというのは、たぶんそういう仕掛けのことです。

曲に込めたこと

曲は、森口の側から作りました。

怒りの歌にはしていません。静かなまま最後まで行く形にしました。

叫ぶ人は、まだ助けを求めています。この人はもう求めていないので。

最後に「なんてね」を歌詞には入れませんでした。あれは音にしてしまうと軽くなるので、余白のまま残しています。

サビの前に、一拍だけ音を止めているところがあります。

あそこは牛乳の場面のつもりで作りました。

何かを言われて、飲み込むまでの時間です。

おわりに

『告白』は、読んで気持ちがよくなる小説ではありません。

読んだあと、しばらく人と話したくなくなります。

それでも読み返してしまうのは、あの静かな声が忘れられないからだと思います。

怒鳴らない人がいちばん怖い。この小説を読んでから、私はそう思うようになりました。

現代小説の考察記事

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