『太陽を盗んだ男』考察|ラストの爆発音の意味と、さえない教師が原爆を作った理由

物語の考察

1979年10月6日、『太陽を盗んだ男』という日本映画が公開されました。

監督・長谷川和彦。主演・沢田研二。中学校の理科教師が、たった一人で原子爆弾を作り、日本政府を脅迫する——あらすじを一行で書くと、ほとんど冗談みたいな話です。

でもこの映画は、キネマ旬報ベスト・テンで日本映画2位、読者選出では1位を取りました。長谷川和彦は毎日映画コンクールの監督賞、沢田研二は報知映画賞の主演男優賞、菅原文太は日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞。公開から40年以上たった今でも、邦画オールタイムベストの投票があれば、だいたい名前が挙がります。

タイトルの「太陽」には、原子力を重ねて読めます。人間が手にした、途方もなく大きな火。それを国家でも軍隊でもなく、さえない中学教師が「盗む」。タイトルの時点で、この映画の企みはもう完成しています。

ただ、私がこの映画に惹かれるのは、核爆弾というスケールの大きさではありません。城戸誠という男の、あまりにも静かな絶望のほうです。

この記事では、あらすじから「9番」という名乗りの意味、要求がプロ野球とローリング・ストーンズだった理由、そして賛否が分かれるラストの爆発音まで、順番に見ていきます。

※後半は結末に触れます。未見の方は、先に映画を観てからのほうが絶対に面白いです。

遠足帰りのバスの車内と、前方に立つ老人
あの日、彼はただの引率の教師だった

まず、冒頭の5分の話をさせてください

この映画は、核爆弾の話から始まりません。

始まりはバスジャックです。城戸誠が生徒を引率して乗っていたバスが、一人の老人(山崎留吉/伊藤雄之助)に乗っ取られる。老人の要求は「皇居へ行かせろ」。天皇に会わせろ、と。

そこへ踏み込んできたのが、山下満州男という警部(菅原文太)です。山下は老人を射殺し、人質を助け出します。

この5分に、映画のぜんぶが入っています。

老人は、たった一人で国家の中心に物を言おうとして、撃たれて死にました。城戸はそれをバスの中から見ています。見ていた、というより、見てしまった。

そして山下という男の、生の濃さも、同じ場面で浴びてしまう。

このバスジャック事件と山下との出会いが、すでに計画を抱えていた城戸の中で、何かを動かしたように、わたしには見えます。老人のやり方では届かない。でも、もっと大きな火を持っていたら——と。

ここで山下と出会っているから、後半の追いかけ合いが、ただの刑事物になりません。

城戸誠の読み方は「きど まこと」——登場人物と、演じた人

名前の読み方を、先に書いておきます。

  • 城戸誠(きど まこと)——中学校の理科教師。演じるのは沢田研二
  • 山下警部(やました)——城戸を追う刑事。演じるのは菅原文太
  • 長谷川和彦(はせがわ かずひこ)——監督

主人公の名前が城戸誠だと分かる場面は、映画の中にほとんどありません。

一人で原爆を作った男に、名前がない。この映画はそういう作りになっています。

散らかったアパートの一室で座り込む男
作れてしまうのか、と思いながら作っていた

あらすじ——理科教師が、たった一人で原爆を作る

城戸誠(沢田研二)は、東京の中学校で理科を教えています。生徒に慕われているわけでもなく、同僚に一目置かれているわけでもない。ガムを噛みながら、気だるく授業をする。ただ静かに、淡々と日々をやり過ごしている男です。

この配役が、とんでもない。当時の沢田研二は、日本でいちばん華やかなスターです。その人が、覇気のない中学教師をやる。「輝ける存在になれたはずの男の、くすんだ現実」が、顔ひとつで成立してしまう。キャスティングの勝利としか言いようがありません。

城戸は茨城県・東海村の原子力施設に忍び込み、液体プルトニウムを奪います。そして自分のアパートの一室で、たった一人、原子爆弾を組み立てていく。

この製造シーンが、映画の白眉です。台所でプルトニウムを精製していく、その異様な日常感。工程の描写がリアルすぎて、公開当時は「本当に作れてしまうのではないか」と物議を醸しました。

そのあいだ、城戸の体は壊れていきます。髪が抜け、鼻血が止まらなくなる。核を手にするというのは、まずなによりも「自分が死ぬ」ことだと、画面が静かに教えてくれます。

完成した爆弾のダミーを国会議事堂に置き、城戸は政府を脅迫しはじめます。名乗りは「9番」。

要求は、三つでした。

  • 第一の要求:巨人対大洋戦のナイター中継を、試合終了まで放送しろ
  • 第二の要求:ローリング・ストーンズの日本公演を実現しろ
  • 第三の要求:現金5億円

世界を人質に取れる力を持った男が、求めたのはこれです。

山下警部が城戸を追い、二人は電話越しに、追いつ追われつの奇妙な関係を結んでいきます。そして映画は、東京の街そのものを使った壮絶なクライマックスへ突き進んでいく。

深夜の電話ボックスで受話器を握る男の後ろ姿
十円玉を並べて、国と交渉していた

なぜ「9番」と名乗ったのか

城戸が自分につけた名前は「9番」です。

城戸は作中で核保有国を八か国と数え、自分をそれに続く九番目として名乗ります。国の次に並ぶのが、自分ひとり。

ここが、この映画のいちばんふてぶてしいところだと思います。

城戸は「犯人」とも「テロリスト」とも名乗りませんでした。名乗ったのは順番です。並んでいった列の、次。つまり彼は自分を、国家と同じ単位で数えた。

さえない中学教師が、国と同じ列に自分を置く。その図々しさと、哀しさ。

そしてもう一つ。城戸誠という名前より、「9番」という呼び名のほうが強く残ります。だから彼は、自分で自分に番号をつけた。「9番」は、彼がはじめて手に入れた自分の呼び名でもあるんです。

城戸誠とは何者か——「普通」であることへの静かな怒り

城戸が原爆を作った理由を、映画は説明しません。野心があるわけでもない。政治的な信念もない。革命を起こしたいわけでも、国家を倒したいわけでもない。

では、なぜか。

私はこう読みました。城戸誠は、「自分が存在していること」を確かめたかったのだと思います。

彼は理科教師として、高度な知識を持っています。原爆を一人で作れるくらいの頭がある。でもその能力は、中学校の理科室では一ミリも必要とされません。彼の言葉を、誰も待っていない。彼がいなくても、学校は明日も動く。

これは、怒りですらないんです。怒るには相手が必要ですから。城戸には怒る相手すらいなかった。だから、世界ぜんぶを相手にするしかなかった。

爆弾は、城戸にとって兵器ではありません。「聞いてくれ」と言うための、たった一つの方法でした。

要求がプロ野球とストーンズだった理由

世界を人質にとった男が求めたのは、プロ野球の延長放送と、ローリング・ストーンズの来日。それだけです。

笑うところなのか、泣くところなのか、本当に分かりません。

当時、ストーンズの日本公演は実現していませんでした。メンバーの薬物の件で入国が認められなかったからです。つまり城戸の第二要求には、「国が禁じているものを、俺が通させる」という意味があります。ささやかだけど、本質的な反抗です。

ちなみにストーンズの初来日公演は1990年2月、東京ドーム。城戸の要求から11年後に、現実のほうが追いついたことになります。

第一要求のほうも、よく出来ています。野球中継が途中で切れるのが嫌だ——これは当時の日本の家庭なら、誰もが思っていた不満です。城戸は「誰も言わない大きなこと」を要求したんじゃなくて、「誰もが思ってる小さなこと」を要求した。

もし彼が「金をよこせ」「政権を倒せ」と言っていたら、この映画はよくある犯罪映画で終わっていたでしょう。プロ野球とストーンズ。このささやかさが、城戸の空っぽさを何よりも雄弁に語ります。

彼には、世界を人質に取ってまで叶えたい「大きな夢」すら、なかった。欲望がないことが、彼の絶望のいちばん深い場所なんだと思います。

三つめの要求「5億円」——サラ金に追われていた男

この映画でいちばん好きな設定を挙げるなら、私は三つめの要求を選びます。

5億円。

一見、いかにもな犯罪者の要求です。でも理由が違います。城戸は原爆を作る資金を消費者金融——いわゆるサラ金から借りていて、その返済を迫られていたんです。だから急に現金が必要になった。

原爆を持った男が、取り立てに怯えている。

このギャグみたいな一行が、城戸誠という人物を決定づけています。彼は世界を脅せるのに、日常から降りることができない。核を持っても借金はなくならない。国家を相手に取引しながら、月末の支払いに追われている。

ここで城戸は、悪魔でも英雄でもなく、ただの人になります。

世界で9番目の核保有者が、サラ金に追われる。この落差を本気で書いたから、この映画は40年たっても死なないんだと思います。

山下満州男という刑事——城戸が手に入れた、唯一の他者

面白いのは、城戸がいちばん生き生きするのが、追ってくる山下との駆け引きの場面だということです。

山下は城戸を捕まえようとします。城戸は逃げながら山下を挑発し、時には協力さえする。二人は電話越しに言葉を交わし、互いの存在を確かめ合っていく。

山下との駆け引きは、城戸がいちばん激しく他者と向き合う場面です。

追う者と追われる者。その緊張の中でしか、城戸は誰かと本当に向き合えない。核爆弾という異常な手段を使って、城戸はようやく「自分を見てくれる他者」を手に入れた。相手が自分を捕まえにくる警察官でも、構わなかったんです。

菅原文太の、暑苦しいほどの生命力も見事です。命を惜しまない。執念だけで突き進む。生の実感をなくした城戸と、生の塊みたいな山下。この二人が追い・追われるうちに、友情のような、殺し合いのような、名前のつかない関係になっていく。

そして冒頭のバスを思い出してください。城戸がはじめて山下を見たのは、山下が人を撃ち殺した場面です。城戸が選んだ「自分を見てくれる他者」は、はじめから、自分を殺しうる人間でした。

沢井零子——声だけでつながった相手

もう一人、城戸が心を寄せる相手がいます。ラジオDJの沢井零子(池上季実子)。番組では「ゼロ」と呼ばれています。

城戸は彼女の番組の愛聴者で、第二要求のローリング・ストーンズ公演も、彼女の公開リクエストを通して動いていきます。

ここが切ないんです。二人のつながりは、ラジオと電話の声から始まります。しかも彼は、自分の名前ではなく「9番」として話す。

ゼロと9番。どちらも、名前ではなく記号です。

名前で呼び合わない二人が、この映画でいちばん近いところまで行く。そして零子は、城戸と逃げる途中で命を落とします。城戸が「つながりたい」と願った、ただそれだけのことが、人を巻き込んで壊していく。

SNSで知らない誰かと話すのが当たり前になった今のほうが、この関係はむしろ生々しく見えるかもしれません。

ラストの爆発音は何だったのか——城戸誠はどうなったのか

ここから結末に触れます。

クライマックスで、山下は暴動を装い、観客の中から犯人をあぶり出す作戦に出ます。城戸は山下を屋上へ連れ出し、撃つ。

山下は全身を撃たれながら、城戸を道連れにしようと屋上から落ち、そのまま殉職します。

城戸は落下の怪我を負いながら、生き残ります。

そして最後の数分。城戸は雨の雑踏を、ふらふらと歩いていきます。被曝で抜けた髪を、どうでもよさそうに投げ捨てる。虚ろな目で、風船ガムを噛んでいる。原爆は、まだ手元にある。

そこに爆発音が重なって、映画は終わります。

あの音が何なのか、映画は説明しません。

原爆が爆発したのか。それとも別の音なのか。城戸がどこで死んだのか、生きているのか、何も描かれないまま終わります。この終わり方をめぐっては、公開から40年以上、ずっと議論が続いています。

私の読み方を書きます。

あの音が原爆かどうかは、たぶん本質じゃありません。大事なのは、城戸が最後まで、あれで何も手に入れられなかったことです。

要求を突きつけ、国家を動かしても、彼の空っぽさは埋まらなかった。だから最後に残ったのは、雨と、抜けた髪と、噛んでいるガムだけです。

爆発音は、その虚しさに対する、映画からの返事なんだと思います。音は聞こえる。でも、それが何の爆発なのかを、画面は確定させない。城戸誠の人生と、まったく同じかたちをしています。

誰にも届かなかった声が、最後にやっと音になった——でも、それが何の音なのかは、誰にも分からない。

雑踏の中をひとりで歩く男
誰も、気づいていない

タイトル『太陽を盗んだ男』の意味

ここでタイトルに戻ります。

「太陽」は原子力です。人類が手に入れた、太陽と同じ火。それを一人の男が盗む。

ただ、もう一つの読み方があると思っています。

城戸誠に足りなかったのは、まさに太陽でした。日の当たる場所。誰かに見られている感覚。朝起きる理由。

そのどれも持っていなかった男が、よりによって「核」という名前の太陽を盗んだ。

本物の太陽は、浴びれば温かい。でも彼が盗んだ太陽は、浴びれば髪が抜けて、鼻血が出て、死に向かっていきます。

欲しかったものにいちばん近い形をした、いちばん遠いもの。それを手に入れてしまった男の話です。

このタイトルは、あらすじの説明じゃなくて、城戸誠という人間の診断書なんだと思います。

1979年という時代——「革命」が死語になったあとで

1979年。学生運動は終わり、「革命」への熱が退いていった時期です。高度成長も終わって、豊かにはなったけれど、何も信じるものがない。

城戸誠は、その残り滓の中に立っています。

集団で世界を変える時代が終わったあとに、一人で世界を脅した男。組織もイデオロギーも持たず、ただ自分一人の空虚だけを動機にして。

そしてもう一つ。この映画には「日本人が原爆を作る」という逆説があります。

世界で唯一の被爆国で、たった一人の男が核を持つ。エンターテインメントの形を借りながら、日本人と核の距離をここまで正面から突きつけた映画は、ほかに思いつきません。

だからこの映画は古びません。むしろ今のほうが近い気がします。

誰でも発信できるのに、誰の声も届かない。「いいね」の数で自分の存在を確かめようとする私たちと、核爆弾で自分の存在を証明しようとした城戸。やっていることの重さはまったく違います。でも、根っこにある渇きは、たぶん同じものです。

「誰かに見つけてほしい」。この願いだけは、1979年のものじゃありません。

一人で原爆は作れるのか——この映画が物議を醸した理由

公開当時、この映画がいちばん騒がれたのは、思想の部分ではありません。「作り方が具体的すぎる」という点でした。

台所でプルトニウムを精製し、部品を組んでいく工程が、やけに細かく描かれている。だから「これを観れば作れてしまうのではないか」という不安が、現実のほうに生まれてしまった。

ただ、その細かさを現実の製造可能性と同じに考えることはできません。

原爆の原理は、じつは教科書に書いてあります。難しいのは、プルトニウムや高濃縮ウランを手に入れることと、それを扱って生きていることのほうです。国家が核を持つのに何年もかかるのは、設計図がないからではなくて、材料と設備と人員がないからです。

この映画が怖いのは、そこを飛ばしていない点だと思います。城戸は材料を盗みに行き、そして被曝します。髪が抜け、鼻血が止まらない。

わたしが注目したいのは、力を手にする過程で、城戸自身の身体が壊れていく描写のほうです。

城戸誠は、爆弾を完成させた瞬間から、すでに自分も壊れはじめていました。太陽を盗んだ人間は、その火に焼かれる。ここまで含めて描いているから、荒唐無稽な話なのに、観ているあいだずっと生々しいんだと思います。

撮影そのものが、すでに事件だった

この映画、作り方も伝説になっています。

  • 国会議事堂に爆弾を仕込む場面は、無許可のゲリラ撮影。妊婦に化けて潜入するカットを、逮捕覚悟で隠し撮りしています
  • 皇居の坂下門前も無許可。一発撮りして、コマを抜いて速く見せた
  • 首都高のカーチェイスも無許可。スタッフが4台の車でノロノロ運転をして一般車を前に行かせ、空いた隙間で撮影した。車はマツダの協力で、沢田研二がサバンナRX-7、菅原文太がコスモAP
  • 現金をばらまく場面は、日本橋の東急百貨店の屋上(劇中の設定は渋谷)。このとき偽札を作った学生の制作進行が逮捕されています。その学生が、のちの映画監督・黒沢清です

いまなら実現が難しい撮影ばかりです。この無茶さが、画面の「本当に起きている感じ」を作っている。城戸誠の無茶と、現場の無茶が、同じ熱で揃っているんです。

なぜ長谷川和彦は、二本しか撮れなかったのか

長谷川和彦監督の長編は、たった2本です。『青春の殺人者』(1976年)と、この『太陽を盗んだ男』(1979年)。以降、新しい長編監督作は発表されないまま、2026年1月31日に亡くなりました。80歳でした。

つまり『太陽を盗んだ男』は、結果として遺作になった一本です。

2本だけで「伝説の監督」と呼ばれている、かなり珍しい人です。

企画は何度も立ち上がったと言われていますが、形にはなっていません。理由を本人が完全に説明したことはないので、ここは推測を書きません。

ただ、観終わったあとに思うのは、この一本に全部出し切った感じの濃さです。無許可でビルから金をばらまき、国会に忍び込み、首都高を塞いで撮る。あれを一度やってしまったら、次に何を撮るのかという問題は、たしかに残りそうです。

城戸誠が原爆を使ってしまったら、そのあとに何も残らないのと、少し似ています。

音羽の視点から——「長すぎた退屈」という曲にしました

この映画を観たあと、城戸誠の心情を歌にするなら、どんな言葉になるんだろう、とずっと考えていました。

怒りではない。絶望でもない。あれは「静かな叫び」だと思います。誰にも届かないと分かっていながら、それでも声を上げずにいられない。人間のいちばん原初的な衝動です。

核爆弾は、城戸にとってのマイクでした。世界に向けて「俺はここにいる」と言うための、たった一本のマイク。

その孤独と、滑稽さと、切実さを一曲にしたのが、「長すぎた退屈」です。

タイトルは、城戸誠が抱えていたものをそのまま置きました。彼を動かしたのは思想でも恨みでもなくて、ただ、長すぎた退屈だったと思うからです。

城戸誠は、共感してはいけない人物かもしれません。彼のやったことは、許されることじゃない。それでも観終わったあと、彼をただの「悪人」として切り捨てられない自分がいます。

「俺はここにいる」という叫びの部分だけが、棘みたいに、胸の奥に残り続ける。

その後味こそが、『太陽を盗んだ男』が40年以上語り継がれている理由なんだと思います。

名前と過去をめぐる考察記事

社会の片隅で「いないこと」にされた人間を描いた作品として、この三本も近いところにいます。


参考:映画『太陽を盗んだ男』(1979年10月6日公開/東宝/監督:長谷川和彦/出演:沢田研二、菅原文太、池上季実子、伊藤雄之助)

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