遠藤周作の『沈黙』の話をします。
正直、この記事を書くのはずっと迷っていました。
信仰の話が入ってくるので、軽く書けないんです。
わたしはクリスチャンではありません。
だから、教義の話はできません。
あくまで、ひとりの読者として感じたことだけを書きます。
以下は音羽の勝手な読み方です。正解を書くつもりはありません。
いちおう、本の枠だけ。
『沈黙』は1966年に出た遠藤周作の代表作です。谷崎潤一郎賞を受賞しています。
2016年には、マーティン・スコセッシ監督が映画化しました。
あの監督が二十年以上あたためていた企画だそうです。
海外でここまで読まれている日本の小説は、そんなに多くないと思います。
宗教が生活に近い国だと、この問いの重さがまた違うんだと思います。
日本で読むと、少し離れたところから見る感じになる。
それはそれで、悪くない読み方だと思っています。
※結末に触れています。未読の方はご注意ください。
どういう話か
江戸時代の初め、キリシタン禁制の日本が舞台です。
ポルトガルから、ロドリゴという若い司祭がやってきます。
目的は、師であるフェレイラを探すこと。
その人が、日本で棄教したという知らせが届いたからです。
あの立派な人が、信仰を捨てるはずがない。
ロドリゴは、そう信じて海を渡ります。
当時の日本は、島原の乱のあとです。
取り締まりは、いちばん厳しい時期に入っています。
しかも、幕府のやり方が巧妙なんですよね。
宣教師をただ殺すんじゃなくて、転ばせようとする。
殺せば殉教者になって、信仰はかえって強くなる。
それをわかったうえで、心を折りにくる。
井上筑後守という人物が、その担当として出てきます。
この人が、また嫌な感じにうまいんです。
声を荒らげない。理屈で追い詰めてくる。
あんたたちの教えは、この国では育たないと諭してくる。
暴力より、あの静かな説得のほうがこわい。
しかもこの人、宣教師の言い分をちゃんと理解しています。
理解したうえで、駄目だと言う。
話が通じない相手より、通じる相手のほうが手強いです。

最初のロドリゴ
来日した当初のロドリゴは、正直ちょっと鼻につきます。
自分は強い信仰を持っていると思っている。
隠れて信仰を守っている村人たちを見て、感動もしている。
でも、その目線はどこか上からです。
救いに来た人、という顔をしている。
この設定が、あとで効いてきます。
高いところから始まらないと、落ちる話にならないので。
若いころの正義感って、たぶんこういう形をしています。
自分は間違っていない、という前提がある。
わたしにも覚えがあります。
あとから思い出して、恥ずかしくなるやつです。
ロドリゴが変わっていく過程は、けっこうゆっくりです。
一気に折れるんじゃなくて、少しずつ削られていく。
その描き方が丁寧だから、最後の場面が効くんだと思います。
▼ ロドリゴの視点で書いたオリジナル曲はこちら
神は、何も言わない
村人たちが捕まって、処刑されていきます。
海に立てた柱に縛られて、波にさらわれていく場面。
信仰を守って死んだのに、何も起きません。
奇跡も、天からの声も、何もない。
ただ、波の音だけがする。
タイトルの『沈黙』は、そういうことです。
神様がいないという話じゃなくて、いるはずなのに何も言わない、という話。
こっちのほうが、たぶんずっときついです。
いないなら、諦められます。
いると信じているのに、何も返ってこない。
その状態が何ヶ月も続く。
祈っても、祈っても、波の音しかしない。
信仰がない人間でも、あの場面の絶望は伝わってきます。
モキチとイチゾウという信者が出てきます。
この人たちの死に方が、本当に静かで。
派手な奇跡もなければ、感動的な演説もない。
ただ、波にさらわれて終わる。
遠藤周作は、そこを飾りませんでした。
立派な最期として書いてしまうと、それは殉教を美しくすることになる。
たぶん、それを避けたかったんだと思います。
キチジローのこと
この小説で、わたしがいちばん気になるのはキチジローです。
何度も裏切って、何度も戻ってくる男。
拷問が怖くて踏み絵を踏む。ロドリゴを売る。
そのくせ、また来て、許してくださいと言う。
普通に読めば、情けない人間です。
でも彼は、こう言うんですよね。
自分は弱い人間として生まれてきた。強い時代なら、いい信者でいられたのに、と。
あれ、けっこう鋭い言葉だと思います。
人の値打ちが、生まれた時代で決まってしまうことってある。
平和な時代なら、普通に暮らせた人。
たまたま最悪の時期に生まれてしまった。
それだけで、裏切り者ということになる。
キチジローを笑える人って、そんなにいないと思うんです。
自分が同じ立場で拷問を前にしたとき、踏まない自信があるか。
しかも踏み絵って、一回踏めば終わりじゃないんですよね。
毎年やらされる。
そのたびに、自分は裏切り者だと確認させられる。
あのやり方を考えた人は、人の心をよくわかっています。
信仰を捨てさせるんじゃなくて、自分で自分を否定させる。
いちばん効く方法です。
わたしには、ありません。
たぶん最初に踏むのは、わたしみたいな人間です。
だからこの小説を読むと、いつもキチジロー側に立ってしまいます。
そして、そういう読者のために書かれた本なんだろうな、とも思います。

弱い人間は、救われないのか
この本が問うているのは、たぶんそこです。
殉教した人は、立派だと言われます。
では、怖くて踏んでしまった人はどうなるのか。
信仰が足りなかった、で終わりなのか。
遠藤周作は、そこをずっと書き続けた人です。
強い者のための宗教じゃなくて、弱い者のための宗教はないのか、と。
わたしは信者ではないですが、この問い自体はよくわかります。
がんばれない人はどうすればいいのか、という話なので。
宗教の話に限らないと思うんです。
努力できる人が偉い、という空気は、いまもあります。
でも、努力できるかどうかにも、けっこう運が絡んでいる。
体が丈夫かどうか、家がどうだったか、まわりに誰がいたか。
弱いことを責める社会は、しんどいです。
この小説が長く読まれているのは、そこがずっと変わらないからだと思います。
あの一行
終盤、ロドリゴは踏み絵の前に立たされます。
踏まなければ、穴吊りにされている信者たちが死ぬ。
自分の信仰を守るか、目の前の人の命を取るか。
そこで、あの声が聞こえます。
踏むがいい、と。
あなたの足の痛みを、自分がいちばんよく知っている、と。
ずっと沈黙していた相手が、いちばん最低な瞬間に口を開く。
あそこを読んだとき、本を閉じてしばらく動けませんでした。
あの声を、本物だと思うかどうか。
たぶん、読む人によって分かれるところです。
ロドリゴの心が作り出した幻聴だ、という読み方もできます。
でも、どちらでもいい気がしています。
あの瞬間に、あの人が誰かに許されたと感じた。
それは、たぶん本当に起きたことなので。
あれは棄教なのか
形の上では、ロドリゴは信仰を捨てています。
名前も変えられて、日本人として生きることになる。
周りからは、転んだ神父と呼ばれる。
でも、あの人の中では何かが終わっていない気がします。
むしろ、来日したころより深くなっているのかもしれない。
形を守ることと、信じ続けることは、別なんだと思います。
もちろん、これはわたしの読み方です。
信仰を持つ方からすれば、また違う受け取り方があると思います。
実際、この小説が出たとき、教会側からはかなり批判もあったそうです。
棄教を肯定しているように読めるので。
遠藤周作は、それを承知で書いています。
自分が信じているものを、いちばん都合の悪い角度から書く。
あれは、かなり勇気のいることだと思います。
日本という場所
作中に、日本は沼地だ、という言い方が出てきます。
何を植えても根が腐ってしまう、と。
これは、外から来た信仰が日本では形を変えてしまう、という話です。
遠藤周作自身が、そこにずっと悩んでいた人でした。
日本人でクリスチャンであることの居心地の悪さ。
この小説は、その悩みがそのまま形になったものだと思います。
遠藤周作は、子どものころに親の都合で洗礼を受けています。
自分で選んだ信仰じゃなかった。
サイズの合わない服を着ているようだ、と書いていたはずです。
その違和感を、一生かけて書き続けた人でした。
だからこの小説には、外から見た視点と、中にいる人の苦しさが両方入っています。
フェレイラのこと
師のフェレイラにも触れておきたいです。
この人は、ロドリゴより先に同じ道を通った人です。
再会したとき、彼は日本名で暮らしていて、仏教の本の手伝いまでしている。
ロドリゴは、それを見て失望します。
でも、フェレイラの言うことは筋が通っているんですよね。
自分が踏まなければ、信者が死んだ。
だから踏んだ、と。
あの人は、二十年以上その答えを抱えて生きてきたわけです。
楽になったわけじゃない。
転んだあとの人生のほうが長い、というのがこの小説の怖いところです。
死ねば終わりますが、生き続けると考え続けることになる。
どっちがつらいかは、簡単には言えません。
曲に込めたこと
この物語をもとに作った曲は、ロドリゴの視点で書きました。
祈りの言葉は、ほとんど入れていません。
わたしが書けるものじゃないので。
代わりに、返事のない問いかけだけを並べました。
答えが返ってこない状態が、あの人の何年かだったと思うので。
メロディも、解決しないようにしました。
終わったのか終わっていないのか、わからない感じ。
気持ちよく着地させると、あの話の後味と合わないので。
あと、教会っぽい音は使っていません。
日本の海の音のほうに寄せました。
海の音は、この小説でずっと鳴っている音なので。
もしよかったら、本を思い出しながら聴いてみてください。
おわりに
この小説は、信じている人にも、信じていない人にも刺さると思います。
わたしみたいに信仰を持っていない人間でも、返事のない問いかけをした経験はあるので。
どうしてこうなったんだろう、と誰にともなく聞くこと。
たぶん、あれと地続きです。
答えが返ってこなくても、問い続けることはできる。
この本が最後に置いていくのは、そういうものだと思っています。
もうひとつ書いておきたいことがあります。
この小説は、踏み絵を踏んだ人を肯定して終わる話ではありません。
殉教した人たちのことも、ちゃんと重く書いてあります。
どっちが正しいという結論は出していない。
だから読者は、宙ぶらりんのまま残されます。
その居心地の悪さこそが、この本の価値だと思っています。
答えをくれる本は、読んだあと楽になります。
この本は、逆です。読む前より重くなる。
でも、その重さは持っていていいものだと思っています。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
音羽(Otowa)について
音羽は、小説や映画、童話を題材に、登場人物の心情を歌にしているチャンネルです。
あらすじをなぞるのではなく、その人が何を感じていたかを想像しながら、歌と文章で書いています。
▼ 『沈黙』の世界を描いたオリジナル曲
▼ 音羽チャンネルはこちら(チャンネル登録お願いします!)
https://www.youtube.com/channel/UCFrbhcvlbZ7YQn31F5neoDg


