『汝、星のごとく』青埜櫂は浮気したのか、夢と愛のあいだで選んだこと

物語の考察

読み終わって最初に思ったのは、これでした。

青埜櫂は最低な男なのか。それとも、誰よりも正直に生きた男なのか。

凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』です。二〇二三年の本屋大賞を取りました。

※この記事は原作小説について書いています。結末まで触れています。

この人の書くものは、いつも答えが出ません。誰も完全な悪者にしない。全員に、そうするしかなかった理由がある。

だから読み終わったあと、長いこと考え込むことになります。

青埜櫂の読み方は「あおの かい」

先に、よく聞かれることから書いておきます。

主人公の名前は青埜櫂、読み方はあおの かいです。

相手役の女性は井上暁海、いのうえ あきみと読みます。

どちらも初見で読みにくい名前なので、検索する人が多いのもわかります。

ただ、この名前は当て字の遊びではないと思っています。

櫂というのは、舟を漕ぐための道具です。

島へ来た子に、島から出るための道具の名前がついている。

あの人が東京へ行ったのは、名前のとおりだったとも言えます。

わたしはこの名前に、自分で進路を選んで漕ぎ出そうとする姿を重ねました。

ただ、これはわたしの連想です。

ちなみに暁海という名前も、海に関係しています。

明け方の海、という意味に取れます。

櫂が舟を漕ぐ道具で、暁海が海。

道具と、その道具が向かう場所です。

二人の名前を並べただけで、関係の形が出てしまっている。

瀬戸内海の島のみかん畑と、穏やかな海、小さな漁港を描いたイラスト
ここで二人は出会って、ここから片方だけが出ていった。

ついでに、タイトルの表記について。

正しくは『汝、星のごとく』です。読点が入って、「ごとく」はひらがな。

ただ検索では、「汝星の如く」「汝星のごとく」と書かれることもよくあります。読点を省いたり、「如く」を漢字にしたり。どれで探しても同じ作品です。

出典は中国の古典ではなく、凪良ゆうさんが付けたタイトルです。意味については、記事の後ろのほうで書いています。

物語の舞台——島と、ふたりの出会い

舞台は瀬戸内の小さな島です。

島で育ったのは、井上暁海のほうです。

青埜櫂は、自由すぎる母の恋愛に振り回されて、京都から島の高校へ転校してきました。島の狭さに息が詰まりながら、いつか島を出て漫画原作者になる、という夢を持っています。

一方の暁海は、父の不倫によって心を病んだ母と暮らし、その生活を支えています。

母を放っておけず、島に残るしかない子でした。

夢を持つ男と、夢を持てない女。

出ていくための人と、残るための人。

最初から、この二人は反対を向いています。

島というのは、この小説ではただの背景ではありません。逃げ場がなくて、景色が変わらなくて、将来まで決まっているように見える場所です。

その閉じ方が、二人の性格を作りました。

二人が出会うのは高校生のときです。

島には他に何もありません。だから、惹かれ合うまでが早い。

ただ、この二人がくっついたのは、恋というより認識だったと思います。

自分と同じ種類の孤独を持っている人が、こんな狭い場所にもう一人いた。

それが分かったとき、人は簡単には離れられなくなります。

二人とも、家庭に問題を抱えていました。

櫂の母は男の人と出ていく人で、暁海の母も不倫相手のところへ行った。

親に振り回された子ども同士です。

だから最初の関係は、恋人というより、避難所に近い。

「愛しているから、行く」——身勝手か、誠実か

櫂は島を出ます。暁海を置いていきます。

ここだけ取れば、ひどい男です。

でもこの人は、嘘をついて出ていったわけではありません。

行く、と言って、行った。

私はしばらく、これをどう扱えばいいか分かりませんでした。

正直であることと、誠実であることは、たぶん違います。

櫂は正直でした。でも暁海にとっては、それが一番きつい形だったと思います。

櫂が島を出る場面に、派手な別れはありません。

大喧嘩もしないし、引き止めもしない。

暁海は止めませんでした。止めたら行けなくなると分かっていたからです。

好きな人の夢を止める側にはなりたくない。

その気持ちが、結果として自分を長く苦しめることになります。

あのとき止めていれば、と思う夜が何年も続いたはずです。

夕暮れの桟橋に立つ女子高生の後ろ姿と、遠ざかっていく連絡船のイラスト
手を振らなかった。見送りではなかったから。

置いていかれる側の時間

出ていく人の話は、よく書かれます。

でもこの小説がえらいのは、置いていかれた側の時間も、同じ密度で書いているところです。

暁海は島に残ります。

母を支えて、地元で働いて、周りの目を受けながら、毎日が同じように過ぎていく。

その何年かが、ちゃんと書かれています。

普通なら飛ばされる時間です。

でも本人にとっては、そこが人生の本体でした。

櫂が東京で駆け上がっているあいだ、同じ長さの時間を暁海も生きている。

この対比が効いてくるのは、かなり後半になってからです。

東京での成功と、消えない罪悪感

東京へ出た櫂は、実際に売れていきます。

夢をかなえた、という言い方もできます。

でもこの人は、うまくいくほど後ろを振り返るようになる。

置いてきた人がいるからです。

成功が、そのまま罪の証拠になってしまう。

櫂が抱えているのは、罪悪感というより、帳尻の合わなさだと思います。

自分だけが前に進んでしまったという感覚。

それは謝っても消えません。

東京には、ともに作品を作る久住尚人がいました。

それでも、島の話ができる相手ではありません。

成功した人が孤独になるのは、よくある話ですが、この人の場合は理由がはっきりしています。

自分の過去を知っている人間を、島に置いてきたからです。

だから、どこへ行っても半分しか話せない。

櫂はなぜ、浮気をしたのか

この作品で、いちばん検索されているのがここだと思います。

東京で櫂は、別の女性と関係を持ちます。相手はひとりではありません。

暁海のことを愛していないのかというと、そうではない。

では、なぜか。

私は、あれは暁海から遠ざかるための行動だったと思っています。

島に残してきた人を、まっすぐ思い続けるのがしんどかった。

だから別のもので埋める。

身勝手です。弁護のしようもありません。

ただ、弱さがそのまま行動に出ているという意味では、この人らしくもあります。

櫂は強い人ではありません。強い人は、置いていくときにちゃんと切ります。この人は切れませんでした。

もうひとつ言うと、浮気を隠しきろうともしていません。

この人はずるいことが下手です。

嘘をつききれる人なら、もっと楽に生きられたはずです。

中途半端に正直だから、誰も救われない。

読んでいて腹が立つのに、嫌いになりきれないのは、そのせいだと思います。

読んでいて苦しいのは、櫂に悪意がないところです。

傷つけようとして傷つけているわけではない。

悪意のない加害が、いちばん長く残ります。

恨む相手がはっきりしないからです。

窓辺で藍色と白の糸で刺繍をしている女性の手元のイラスト
島に残って、この手を動かし続けた十五年。

暁海の読み方は「あきみ」——井上暁海という女性

暁海のほうも、我慢だけしていたわけではありません。

島に残ったのは、母を見捨てられなかったからです。

責任なのか、愛情なのか、自分への罰なのか。

たぶん本人にも区別がついていません。

この三つは、外から見るとよく似ています。

そして本人がいちばん見分けにくい。

暁海が最後に一歩を踏み出す場面が、ただの自立に見えないのは、そこまでの時間が長かったからだと思います。

暁海には、島でやっていた仕事があります。

刺繍です。

黙って手を動かす作業で、それが彼女の逃げ場になっていました。

声を上げられない人が、指先で何かを言っている。

この設定は本当にうまいと思います。

櫂が言葉で生きる人(漫画原作者)で、暁海が言葉を使わない人だというのも、対になっています。

北原先生という存在

暁海のそばにいた人として、北原先生を外せません。

この人は、暁海に何かを求めません。

のちに暁海と結婚しますが、決まった形の夫婦に押し込めようとはしません。彼女が自分で選び直せる関係を作ろうとした人だと、わたしには見えました。

櫂が夢に向かって走る人だとすれば、北原先生は誰かの夢を育てる人です。

どちらが本物の愛か、という比べ方はしたくありません。

ただ、暁海が壊れずに済んだのは、この人がいたからです。

北原先生については、賛否があると思います。

暁海を支えた人と見るか、別の形で縛った人と見るか。

私は支えた側だと思っていますが、断言はできません。

誰かを助けることと、その人の世界を狭めることは、たまに同じ形をします。

親という問題

この小説は、恋愛の話であると同時に、親の話でもあります。

櫂も暁海も、親に人生を曲げられています。

親の事情が、そのまま子どもの身動きを奪っていく。

暁海が島に残ったのも、櫂が家を出たのも、もとをたどれば親の選択が理由です。

自分で決めたようでいて、実は決めさせられている。

この構造から抜けるのに、二人とも十年以上かかりました。

大人になってからも、親の影響は終わりません。

そこを逃げずに書いているから、この小説は重いんだと思います。

青埜櫂はどうなったのか——病気と、最後に書いたもの

ここから結末に触れます。まだ読んでいない方は、この節を飛ばしてください。

櫂は胃がんで亡くなります。

あれだけ島を出たがって、東京で漫画の原作を書いて、やっと自分の場所を作った人が、そこで終わります。

島を出ると言って出ていった人の、行き先がそこでした。

そして最後に、ひとつだけ残していきます。

小説です。

漫画の原作を書いていた人が、最後に小説を書いた。これは、絵をつける相手がいらない形を選んだということでもあります。

櫂はずっと、自分の言葉を直接は渡さない人でした。

好きだと言わない。説明しない。黙って島を出ていく。

その人が、最後だけ文章を残しています。

しかも、相手に手渡すのではなく、本にして残した。会えないことを前提にした渡し方です。

この人らしいと思いました。最後まで、面と向かっては言えなかった。

星空の見える窓辺の机に積まれた手書きの原稿と万年筆、空いた椅子のイラスト
書き終えた人は、もういない。

タイトル「汝、星のごとく」の意味

星はきれいです。でも手は届きません。

遠いから、光って見えます。

暁海にとっての櫂は、たぶんそういう存在でした。

そして櫂にとっての暁海も、同じだったと思います。

近くにいたら、ここまで好きだったか分からない。

残酷ですが、距離と愛が比例してしまうことは、実際にあります。

この二人は、実際に一緒にいて、傷つけ合いもしました。それでも残り続けた関係です。

かなわなかった恋のほうが長く残るのは、たぶんそういう仕組みです。

タイトルは、佐藤春夫の詩「夕づつを見て」の一節に由来します。凪良ゆうさんは、その言葉の響きの美しさに惹かれたと語っています。

ただ、詩の出典を知らなくても読める言葉だと思います。

星のように、という呼びかけが誰に向けられているのか。

櫂から暁海になのか、暁海から櫂になのか。

どちらにも取れるように書いてあります。

そして、この題名にはもっとはっきりした答えがあります。

櫂が最後に書いた小説の題名が、『汝、星のごとく』です。

つまり、いま私たちが読んでいるこの本は、櫂が書いた本と同じ名前を持っています。

ここに気づいたとき、しばらく本を閉じました。

「汝」は、あなた、という意味です。二人称です。誰かに向かって呼びかける言葉で、独り言ではありません。

櫂に、気持ちを伝える言葉がなかったわけではありません。それでも、言葉だけでは二人のすれ違いは埋まりませんでした。

その人が、最後に書いたものの一文字目が「汝」だった。

あなたは、星のようだ。

言えなかった言葉を、題名にして置いていった人の話だと思っています。

だからこの小説を読み終えたあと、もう一度表紙を見ると、意味が変わります。同じ六文字が、別のものに見える。

タイトルの由来は佐藤春夫の詩ですが、それを知らなくても、この構造だけで十分だと思います。

夢と愛は、なぜいつもぶつかるのか

夢と愛がぶつかる話は、昔から何度も書かれてきました。

それだけ、誰にでも起きることだからだと思います。

どちらかを選べば、どちらかが欠ける。

二人には、両方を守ることが難しい時期がありました。

この小説がうまいのは、どちらを選んでも幸せにならない、という書き方をしていないところです。

選んだほうにも、ちゃんと意味がある。

ただ、選ばなかったほうの重さも一緒に持っていくことになる。

私自身、この二択を迫られたことがあります。

そのとき何を選んだかは書きませんが、選ばなかったほうのことを、いまでも時々考えます。

選ばなかった人生は、勝手に美化されていきます。

そこまで含めて、この小説は正確だと思いました。

夢を持てる人と、持てない人がいます。

才能の話ではありません。持てる状況にいるかどうかの話です。

暁海には、夢を持つ余裕がありませんでした。

目の前のことで手一杯の人に、将来の話は遠すぎます。

だから彼女は、櫂の夢を自分のことのように応援しました。

自分の分まで託していた、と言ってもいいと思います。

託された側は、それに気づいていたんでしょうか。

男が「愛している」と言えないとき

櫂は、気持ちを言葉にしません。

言わなくても分かるだろう、というやつです。

でも暁海は、その言葉を必要としていました。

言わなくても分かる、というのは相手への甘えでもあります。

言葉にすると、その言葉に縛られる。だから怖くて言えない。

たぶん櫂も、そのタイプです。

行動で示すことと、言葉で伝えること。両方いる、という当たり前のことを、この小説は静かに突きつけてきます。

櫂はそれに気づくのが、少し遅かった。

その「少し」が、人生を変える分かれ目になることがあります。

言葉にしない人が悪い、という話でもありません。

言葉にできる人が、必ず誠実とはかぎらない。

口のうまい人ほど、何も渡さないことがあります。

だから、言えば済むという話ではない。

相手が何を必要としているかを見ようとするかどうか。そこだけだと思います。

この小説には、はっきりした謝罪の場面がありません。

ごめん、で済む段階を、二人はとっくに過ぎています。

だから会話が、どこかいつもずれている。

そのずれ方が、読んでいてリアルでした。

愛することと、そばにいること

読み終わって思ったのは、この二つは同じではない、ということでした。

愛しているのに離れる人がいます。愛していないのにそばにいる人もいます。

どちらが正しいとは言えません。

恋愛の話をするとき、人はつい白か黒かで決めたがります。

でもこの小説はずっと灰色です。

誰も完全に正しくないし、誰も完全に間違っていない。

その灰色の中で、全員が必死にやっている。

人はつい、愛情の量で測ろうとします。

どっちがより好きだったか、みたいに。

でもこの二人を見ていると、量の問題じゃないことが分かります。

好きの量は足りていました。足りなかったのは、同じ方向を向いている時間のほうです。

この物語が「恋愛小説」にとどまらない理由

本屋大賞を取ったのは、切ない恋が書いてあるからだけではないと思います。

読んでいると、自分も似たようなことをしたことがある、と思う瞬間があります。

夢を選んで誰かを傷つけたことがある人。

誰かのために自分を後回しにしたことがある人。

どちらの側で読んでも、どこかに自分の痛みが映ります。

それから、この小説は家族のことも丁寧に書いています。

親の問題を背負わされた子どもがどうなるか。櫂も暁海も、そこでつまずいています。

恋愛小説の顔をしていますが、中身は生き方の話です。

二〇二三年の本屋大賞を取ったあと、二〇二六年十月九日に映画が公開されました。

映像だと、どうしても櫂が悪者に見えやすくなります。

小説のほうは、彼の内側が書いてあるぶん、判断が難しくなる。

その難しさを味わうために読む本だと思っています。

曲に込めたこと

曲は、櫂の側から作りました。

言い訳の歌にはしていません。言い訳できないことを分かっている人の歌です。

サビで一度だけ「行く」と言わせて、あとは何も言わせませんでした。

この人は、それ以上しゃべらないと思うので。

最後のワンフレーズだけ、島の音を入れました。

波の音です。

東京の話をしていても、この人の中ではずっとあの音が鳴っていたはずなので。

もうひとつの曲——暁海の側から

ここまで、ずっと櫂の側から書いてきました。曲も櫂の側です。

でも、置いていかれたほうにも言い分があります。

暁海の目線で、もう一曲作りました。「星を縫う」です。

待っていた話にはしていません。島に残って、自分の仕事をして、親の面倒を見て、そのうえで何度も愛を選び直した人の歌です。

最後は自分の足で会いに行きます。守られる側では終わらせませんでした。

二曲つづけて聴くと、同じ十五年が違うものに見えると思います。離れていた時間を、櫂は「奪った」と思っていて、暁海は「縫っていた」と思っている。

映画版『汝、星のごとく』——2026年10月9日公開

映画になります。公開は2026年10月9日。監督は藤井道人さんです。

  • 青埜櫂(あおの かい)——横浜流星
  • 井上暁海(いのうえ あきみ)——広瀬すず
  • 北原草介(きたはら そうすけ)——長谷川博己
  • 青埜ほのか(櫂の母)——尾野真千子
  • 暁海の母——木村佳乃
  • 林瞳子(はやし とうこ/刺繍作家)——石田ゆり子
  • 久住尚人(くずみ なおと)——松村北斗

ほかに中村アンさん、濱田岳さん。主題歌はRADWIMPSの書き下ろしで「夕星」です。

基本の情報もまとめておきます。

配給は東宝。上映時間は135分。PG12です。脚本は安達奈緒子さん、音楽は大間々昂さん。

そして、この映画化には始まりの話があります。

原作の映画化を望んでいたのは、青埜櫂を演じる横浜流星さん本人でした。横浜流星さんが藤井道人監督に持ちかけたことから、企画が動いたと報じられています。

原作は2022年に出て、翌年に第20回本屋大賞を受賞しました。

俳優が自分で惚れ込んで、監督を口説いて実現させた映画化。そう聞くと、横浜流星さんがこの話の何に引っかかったのかが気になります。

櫂は、愛しているのに離れていく男です。演じる側から見ても、簡単な役ではないはずです。

気になっているのは、十五年をどう二時間に入れるかです。

この小説のつらさは、起きた出来事そのものより、あいだに流れた時間のほうにあります。「待つ」という言葉が成立しない長さです。小説なら行間で飛ばせますが、映画はそうもいきません。

もうひとつ、石田ゆり子さんの林瞳子です。原作だとかなり厄介な立ち位置の人で、暁海の父の不倫相手であり、同時に暁海に刺繍を教えた人でもあります。

この人を悪役にしないで描けるかどうかで、映画の読み方はだいぶ変わると思います。

映画を見る前にここへ来た方へ。この記事は原作の結末まで書いています。先に映画を見てから戻ってきてください。

原作を読み終えた方へ。曲が二本あります。櫂の側と、暁海の側です。この記事の中に貼ってあります。

もう一冊の凪良ゆう——『流浪の月』と、同じ場所から書かれている

『汝、星のごとく』を読んだあと、どうしても思い出す本があります。同じ凪良ゆうの『流浪の月』です。

二作とも本屋大賞を獲っています。『流浪の月』が2020年、『汝、星のごとく』が2023年。三年あいだが空いていますが、書いているものは地続きだと思います。

『流浪の月』は、九歳の更紗と十九歳の文が、二か月いっしょに暮らした話です。世間はそれを「誘拐」と呼びました。でも更紗にとっては、人生でいちばん安全だった二か月でした。

名前のつけ方が、当事者と世間とで、まるで違う。

『汝、星のごとく』も同じです。櫂と暁海の関係を外から見れば、いくらでも悪く言えます。でも二人のあいだで起きていたことは、その言葉のどれとも違っていた。

凪良ゆうという人は、たぶんずっとこれを書いています。他人がつけた名前と、本人が生きた実感のあいだにある距離。

櫂の選択が引っかかった人には、更紗の二か月もきっと刺さります。→ 『流浪の月』更紗にとって、あの二か月は何だったのか

おわりに

『汝、星のごとく』には続編があります。『星を編む』です。

こちらを読むと、見えていなかった側の事情が出てきます。

順番としては、まずこちらを読んでからのほうがいいと思います。

櫂のことを最低だと思ったまま、一度本を閉じてください。

そのあとで続きを読むと、たぶん一回ひっくり返ります。

現代小説の考察記事

音羽のブログでは、ほかにもこういう作品の考察を書いています。

→ これまでに考察した作品の一覧はこちら

音羽(Otowa)について

小説や映画を読んで、頭から離れなくなったものを曲にしています。このブログの考察は、その曲の裏側です。

これまでに作った曲はYouTubeに置いています。ミステリーから絵本まで、いまのところ45本ほど。

▶ 物語考察MUSIC|音羽(YouTubeチャンネル)

チャンネル登録しておいてもらえると、新しい曲ができたときに届きます。よかったら。

タイトルとURLをコピーしました